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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <39> まだまだまだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で③ 「ビルマ国」の独立とフーコン、アキャブの戦い

<13日目ー4
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。

<英米中軍の反攻の中、「ビルマ国」の独立>
日本は対英米戦の勝利後に、ビルマの独立を予定していたと言われている。
しかし戦線は次第に後退局面になりつつあって、日本政府は早期にビルマ独立の方向に急遽方向転換する。
1943年(昭和18年)3月に「緬甸(ビルマ)独立指導要領」を決定し、その後の1943年(昭和18年)8月1日、「ビルマ国」は独立した。

5月13日にマンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウ(Ba Maw)を首班に、国防大臣はアウン・サン。外相はウ・ヌー(U Nu)が就任した。
ウ・ヌーは、1948年イギリスからの独立後「ビルマ連邦」の初代首相になる人だ。

同時に「ビルマ防衛軍 BDA」を解散し、「ビルマ国民軍 BNA」(Burma National Army)に移行。司令官だったアウン・サンが国防大臣に転出したため、後任の司令官には、ネ・ウィン(Ne Win)大佐が就任した。
ネ・ウィンは後に、ビルマ独立後の1962年に軍事クーデターを起こし、軍事政権を打ち立てた人物だ。

この「ビルマ国独立」により、ビルマと中国の国境で中国国民党軍(重慶軍)と対峙しているシャン州を除き、日本軍による軍政は廃止された。
但し、政権内に日本人の顧問を置くと同時に、軍政要員の多くが参謀部2課別班に残留し、ビルマ政府との連絡にあたっていた。
ビルマ国政府は、日本と「日本国ビルマ国間軍事秘密協定」を結ぶと同時に、英米に対し宣戦布告している。

このビルマ国は、戦争遂行のため日本軍により作られた自治政府だった。
しかし、戦前ビルマ南部ではインド人地主が農地の半分を所有し、ビルマ人小作農に貸し付けていたが、イギリス軍撤退と共に、インド人地主もインドへ逃げたため、バー・モウ政権は土地をビルマの小作農に引き渡すなどの政策をとっていた。


<連合国軍の反攻、フーコン谷地の戦い 第18師団(菊・久留米)>

アメリカ軍は、遮断された援蒋ルート「ビルマルート」に代わるルートの建設を意図していた。それが「レド公路」(Trace of Led Road)と呼ばれるルートだ。
インド・アッサム州のレド(Ledo)から国境を越えて、フーコン谷地(Hukawng Valley)のカチン州のシンブイヤン(Singbwiyang)を通って北部の要衝ミートキーナ(Myitkyina)へ。
さらにバーモ(Bhamo)へ抜け、そこからは、シャン州のナムカム(Nam Kam 現在のムセ Mose)、モンユ(Mong Yu)に到るルート(通称Stillwell Road)で、モンユ(Mong Yu)からは中国国境の龍陵、昆明へと抜ける従来の「ビルマ公路」に接続する予定だった。

この道路建設には、インドとビルマ国境に連なるパトカイ(Patkai)山脈を越える必要があり、標高1,400mのパンソ―峠(Pangsau Pass)を越えるルートを切り開いた。
この下に広がるのがフーコン谷地で、ビルマ北部カチン州にあり、チンドウィン河源流域で、東西30~70Km、南北200Kmに及ぶ大ジャングル地帯だった。

道路の建設工事は、15,000名のアメリカ陸軍兵士(内60%はアフリカ系アメリカ人と言われている)と、35,000名の現地人労働者により、1942年(昭和17年)12月1日から始まっていた。
完成したのは1945年(昭和20年)1月12日なので、この時始まったフーコン谷地での米中軍の攻撃はまさに「レド公路」建設作業の真っ最中だった。

1943年(昭和18年)10月30日、突如中国新編第1軍(インド遠征軍)が、フーコン河谷の二ンビン(Ningbyen)の日本軍陣地を攻撃して来た。二ンビンはシンブイヤン(Shingbwiyang)の僅か南に位置する。
米中軍は、中国兵にアメリカ式の武装と訓練を施し、インドのビハール州やジャールカンド州に配置されていた「中国軍新編第1軍」(インド遠征軍)とアメリカの「ガラハット」部隊(第5307混同部隊)だった。
一方このフーコン谷地には、日本陸軍の第18師団(菊・久留米)が、カマイン、モウガン(Mong Kawng)、ミートキーナに守備陣を敷いていた。

第18師団の編成地は九州の久留米。兵団符号(通称号)は「菊」で、旧陸軍200近い師団の中で唯一皇室の紋章である「菊」を付けた精鋭部隊だった。
主力の歩兵部隊は、歩兵第55聯隊(大村)、歩兵第56聯隊(久留米)、歩兵第114聯隊(福岡)。
英米戦開戦当時の1941年(昭和16年)11月16日には、「南方作戦(あ号作戦)」のうち「マレー作戦」を担当する第25軍の戦闘序列に編入され、1943年(昭和17年)2月のシンガポール陥落を担った。
そのあと3月にはビルマの第15軍に編入され、ラングーンに上陸、その後第55師団(楯・善通寺)と共にマンダレーを陥落させている。

しかし、この第18師団(菊・久留米)が守備するフーコン谷地は、ほぼ日本の長野県と同じくらいの広さと言われていて、通常1師団で守れるのは10Km程度の範囲とされているが、フーコンはその7倍もあった。
緬甸(ビルマ)方面軍からは第18師団に対して、1944年(昭和19年)3月15日第15軍に対し作戦発起された「インパール作戦」に勝利するまで、持久せよとの命令が出ていた。

二ンビンでの戦闘は、二ンビン川を挟んで行われたが、既に兵站の差が大きく、補給の無い第18師団の山砲は弾が無く1日10発以上撃てない。逆に1発撃つと、敵より100発撃たれるという状態で、制空権は奪われ、敵機からの銃撃や爆撃、更に高射角で撃たれる迫撃砲など絶え間なく攻撃されるという有様だった。第18師団の1個師団に対し、敵は10個師団近い勢力だった。
フーコン谷地の戦いは、その後も厳しい自然環境と第18師団(菊・久留米)の持久戦で、長く続くことになった。

1943年(昭和18年)12月24日、米中軍がユパンガを攻撃。第18師団はこれに対峙するも、その間に1944年(昭和19年)3月5日、英印軍のチンディット(Chindits)部隊が、大量のグライダーを使用した空挺作戦で、約9000名がマンダレー・ミートキーナ間に降下し、第18師団への補給路を切断した。
これに対し、方面軍直轄部隊である第53師団(安・京都)の一部部隊による掃討により一時的に補給は回復するものの、1944年(昭和19年)6月末、フーコン谷地から退って来たカマイン(Kamaing)で再び退路を断たれ全滅の危機に陥った。
その間第18師団は、1944年(昭和19年)8月方面軍よりの転進命令を受け、退路を切り開きつつ脱出し、南下することになる。
8カ月に及ぶ戦闘で、第18師団の損失は約10000名、師団兵力の三分の二を失っていた。

この頃、「勝利するまで、持久せよ」との命令が出ていたインパールでは、1944年(昭和19年)6月1日コヒマの第31師団が独断撤退を行い、既に作戦は瓦解。7月3日には南方軍よりインパール作戦中止命令がでて、将兵は一斉退却の最中だった。

フーコン谷地とレド公路

 

<再びアキャブの戦い・第55師団(壮・善通寺)>
1944年(昭和19年)2月、イギリス軍第15軍団の第5インド歩兵師団、第7インド歩兵師団の2個師団は、英領インドのチッタゴン(Chittagong 現バングラディシュ)方面よりべンガル湾の海岸沿いを進攻し、インド国境のシンゼイワ(Singweya)を攻撃してきた。
これは前年の1943年(昭和18年)2月10日の攻撃以来だったが、今回はビルマの制空権を掌握したイギリス軍が、べンガル湾沿いの要衝であるアキャブ(現シットウェー)の占領を目指していた。

日本軍の守備隊は、第55師団(楯・善通寺)だった。
この師団は、1941年(昭和16年)9月、四国の善通寺で編成された部隊だ。
主力は、歩兵第112聯隊(丸亀)、歩兵第143聯隊(徳島)、歩兵第144聯隊(高知)で、1941年(昭和16年)11月6日にビルマ攻略部隊の第15軍隷下に編入された。
しかし歩兵第144聯隊(高知)は、これを基幹とする「南海支隊」として大本営直轄部隊として抽出されていた。
この隊は開戦後、グアム、ラバウル攻撃、1942年(昭和17年)7月にはニューギニアのポートモレスビー攻略戦に参加している。

1941年(昭和16年)11月中旬、第55師団主力は、香川県の坂出、詫間両港を出航して、仏印、タイへ渡る。
歩兵第143聯隊(徳島)を主力とする宇野支隊は、開戦と同時に「マレー作戦」担当の第25軍の第5師団(鯉・広島)などに続きマレー半島に上陸し、半島西岸でビルマ最南端のビクトリアポイントを占領。12月27日バンコクで原隊に復帰している。

1942年(昭和17年)1月、第55師団(楯・善通寺)主力は、第33師団(弓・仙台)と共にタイ国境からビルマ領内に進出する。
1月31日モールメン(現モウラミャイン)占領。2月20日モールメン対岸のマルタバンの英印軍を破って、3月3日にはシッタン河を渡河して、7日に旧都ペグーを占領。
第33師団(弓・仙台)はそのまま南下して、3月8日英領ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領。

一方の第55師団(楯・善通寺)は、シッタン河沿いをマンダレーに向けマンダレー街道を北上。
途中戦車を擁する中国国民党軍(重慶軍)と遭遇するも、これを破り3月30日要衝トング―を占領。
4月19日ピンマナーで、シンガポール戦を終え、新たに第15軍の戦闘序列に編入され、占領後のラングーンに上陸していた第18師団(菊・久留米)と合流し、4月26日カンダンを突破、1942年(昭和17年)5月4日にはマンダレーを占領。
その後1943年(昭和18年)初頭までマンダレー周辺に分散駐屯して、警備に当たっていた。

その最中に起きたのが、1942年(昭和17年)12月の英印軍によるアキャブ攻撃(第一次アキャブ作戦)だった。
当時アキャブ周辺を守備していた第33師団(弓・仙台)の歩兵第213聯隊(水戸)を主力とする宮脇支隊を救出するため、アラカン山脈を越えて進出し援軍したのが第55師団(楯・善通寺)だった。
4月3日にはインデン付近の英第6旅団(イギリス人のみの精鋭部隊)を補足、旅団長を捕虜にし主力を殲滅するなどして、英印軍を退却させていた。

その後ラカインの防衛を担うことになった第55師団(楯・善通寺)は、歩兵第112聯隊(丸亀)をマユ半島の海岸地域、歩兵第143聯隊(徳島)をプチドン・モンドウの線に配置して防衛体制に入った。
また12月には大本営直轄部隊として抽出され、南海支隊としてニューギニア戦線で戦っていた歩兵第144聯隊(高知)が師団に復帰してきた。

1944年(昭和19年)2月に進攻して来た英印軍2個師団に対し、対峙する歩兵第143聯隊(徳島)(聯隊は、平時編成での兵力は約1,500名)はまともにその圧力を受けていた。
前年3月のビルマ方面軍創設によって、ラカイン(アラカン Rakhaing State)の守備を担当する第28軍3個師団が設けられていたが、第55師団(楯・善通寺)以外の第54師団(兵・姫路)、第2師団(勇・仙台)は多方面に転用されたり、進出が遅れて、アキャブ正面には増援が無かった。

アキャブを失うとラングーン迄十分な防衛線が無いことと、また3月に開始される予定の「ウ号作戦(インパール作戦)」の陽動作戦として英印軍を引き付けておくため積極的な攻撃が必要と、第55師団(楯・善通寺)は単独で「ハ号作戦(第二次アキャブ作戦)」として先手を打って攻撃を始めた。

第55師団(楯から「壮」に変更・善通寺)の主力は英印軍の背後を奇襲して、シンゼイワ盆地にインド第5師団、第7師団を包囲。
包囲殲滅戦は前年1943年(昭和18年)2月10日の英印軍のアキャブ攻撃に対する作戦と同じだったが、しかし今回は勝手が違っていた。
包囲されたはずの英印軍は、「アドミン・ボックス」(円筒陣地)と呼ばれる強固な陣地を構築して対抗した。
「アドミン・ボックス」は30から50m措きに戦車(M3グラント戦車など)を円形に配置し、その間には装甲車や機関銃座を置き、前面には鉄条網を張った要塞で、補給は空輸されていた。
最初は英印軍2個師団で始まったが、最終的には第81西アフリカ師団、第20インド師団、第36歩兵師団などか増援され5個師団になった兵力と、1941年3月にアメリカ議会で成立していた「武器貸与法(レンドリース法)」で潤沢な米国製武器で武装したイギリス(英印)軍は、優勢な制空権下で空からの豊富な補給に支えられたため、日本軍は包囲し攻撃するも、却って消耗しながら攻めきれず、結果撤退せざるを得なかった。
この敗北が、ビルマ戦線に於ける攻守の転換点になったと言われている。

この戦いで、第55師団(壮・善通寺)の受けた損害は甚大だった。
1944年(昭和19年)3月10日、追撃してくる英印軍と戦闘を繰り返しながら、5月の雨季を迎えた。
雨季の最中の7月10日、「ウ号作戦(インパール作戦)」は中止され、緬甸(ビルマ)方面軍は敗退する各師団の将兵を収拾して、南部ビルマを確保しようとしていた。
第55師団(壮・善通寺)も、1944年(昭和19年)9月アラカン地区から南部イラワジ河デルタへの転進が命じられ、その守備に就くことになった。

ラカイン(アラカン)の戦い