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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <38> まだまだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で② 「攻撃消耗戦」と日本軍の劣勢

<13日目ー3
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、遥かエーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。

<太平洋地域での日本軍の目論見(昭和17年まで)>
1942年(昭和17年)3月、日本軍は早期に完了した「南方作戦」の後の「第二段作戦」を計画していた。
昭和16年12月の開戦当時、「南方作戦」は陸海軍中央統帥部では「あ号作戦」と呼称し、海軍では「第一段作戦」と呼んでいた。対英米蘭戦(日本側の呼称「大東亜戦争」)開戦時に於ける、日本軍の進攻作戦だ。

作戦の目的は、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなどオランダ領東インド(現インドネシア)やイギリス領マレー(現マレーシア)などの重要資源地帯を攻略確保して、米英に依存することなく、自立できる経済圏の確立を目指すというものだった。

そしてこの「第二段作戦」では、南方作戦で獲得した占領地の防衛のため、米豪の連絡線遮断により豪の戦線離脱と、早期終戦のためハワイの占領を意図していた。
そのための作戦は、1942年(昭和17年)5月、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略、6月ミッドウェー攻略、アリューシャン列島攻略、7月フィジー・サモア島攻略だった。

しかし1942年(昭和17年)6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で、空母4隻、航空機372機を失う大敗北を喫してしまう。これによって主に海軍主導で進められてきた「第二段作戦」は放棄せざるを得なくなった。

1942年(昭和17年)ごろの日本軍の占領地域


<「攻撃消耗戦」とガダルカナルの戦い>

ミッドウェー海戦の敗北後も、日本の大本営は米豪分断の目的は放棄せず、ラバウルより更に東の、ソロモン諸島最大の島ガダルカナル島(Guadalcanal)に飛行基地を建設し、失った空母の代わりに基地飛行部隊を進出させることで、米豪の連絡線遮断の要となるソロモン諸島の制空権を確保しようと意図していた。

大本営は連合国軍の太平洋方面に於ける反攻開始は、1943年(昭和18年)以降と想定していたため、ガダルカナル島には航空基地の設営隊とその護衛部隊である海軍陸戦隊の約600名が駐屯するのみだった。
しかし対するアメリカ軍は、1942年7月2日に対日反攻作戦「ウォッチタワー作戦」(Operation Watchtower)を発令し、最初に日本軍が飛行場を設営していたガダルカナル島を攻略することになった。

「ウォッチタワー作戦」では、米国領土や本土沿岸水域の確保、豪州及び付属島嶼と米国西海岸、パナマ間の海上交通路の確保、日本軍占領地に対する日本軍の活動封鎖、潜水艦や空母を使った圧迫、攻撃消耗戦での日本軍の勢力減衰、インド・ビルマ・中国の防衛に対する限定的補助の方針が策定されていた。

「攻撃消耗戦」とは、日米の工業力、生産能力に尋常でない程の国力差があったから取り得た戦略だったのだろう。
日米開戦時、良く知られるように「国民総生産(GNP)」は日本の449億円に対し、米国は5,312億円と約12倍の差があった。
粗鋼生産量では約12倍、商船建造量では約5倍、航空機生産量でも約5倍、商船保有量は約1.7倍、自動車保有量は約160倍だった。
1941年(昭和16年)12月8日の対英米戦開戦以来、日本軍はほぼ開戦当時保有していた軍事力(兵員を除く装備品)で戦っていたが、その後は米国との国力に応じた増産能力の差が次第に各戦場での戦いに現れて来ていた。

1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ海兵隊とオーストラリア軍10,900名がガダルカナル島に上陸し、翌1943年(昭和18年)2月7日日本軍の撤退まで約7ケ月続いた戦闘が開始された。
この間に日本軍は戦力の逐次投入や補給を軽視した戦略などの失策もあって、大勢の戦死者と多数の艦艇、航空機を失い、まさに「攻撃消耗戦での日本軍の勢力減衰」によって、1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦と共に、一気に対英米戦争の形勢が逆転して仕舞った。

ソロモン諸島のガダルカナル島

<カサブランカ会議とビルマの戦い(昭和18年以降)>
1943年(昭和18年)1月14日から23日にかけて、フランス領モロッコのカサブランカでアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相による会談が行われた。
この中で、欧州戦線ではシチリア島、南イタリアへの上陸作戦や、ビルマ戦線では1943年11月から本格的な反攻開始に合意したと言われている。

アメリカの意図は、中国国民党政府(蒋介石政権)を日本軍に対し抵抗を続けさせ、連合国側に繋ぎとめることだった。
1942年(昭和17年)の段階で、日本陸軍は中国大陸に約68万人、朝鮮・満州に74万人もの大軍が貼りついていた。もし国民党政権が降伏すれば、その大軍が南方戦線に雪崩れ込んでくる可能性があった。南方戦線で戦っていた陸軍兵力は、開戦の初期段階では僅か15万人だったのだ。
そのためには、北部の上ビルマを日本軍から奪還し、援蒋ルートを再開する必要があった。

一方イギリスの意図は、イギリスの植民地インドへの脅威を除くこと、更にマレー、シンガポール、香港など植民地の奪回で、その前段階としてビルマに於けるラングーンの奪回を目指していた。
そのために、イギリス軍はインパール及びベンガル湾沿いのラカインなど南西沿岸部からの反攻を計画していた。

この英米のビルマ反攻への意識の違いの中で、指揮の統一や調整を目指して、1943年8月には東南アジア連合軍司令部(Allied Forces Headquarters in Southeast Asia)が創設されることになる。
総司令官にはイギリス軍のルイス・マウントバッテン(Louis Mountbatten)伯爵(中将)が、副司令官にはアメリカ軍のジョーゼフ・スティルウェル(Josepf Stilwell)中将が就いた。

しかしこれを待たずに、英軍の最初の反攻が1943年(昭和18年)2月10日に始まったアキャブでの戦闘(第一次アキャブ作戦(日本側呼称「第三十一号作戦」))だった。
これは、ベンガル湾沿いラカインの要衝アキャブ(Akyab 現シットウェーSittwe)を奪還するため南下攻勢をかけて来たイギリス軍を、守備にあたっていた日本軍第33師団(弓・仙台)隷下で歩兵第213聯隊(茨木県水戸編成)主力の宮脇支隊が堅守している間に、当時マンダレー付近にあった第55師団(楯・善通寺)が長躯アラカン山脈を越えて援軍し、5月に漸くイギリス第15軍団の2個師団と2個旅団を撃退した戦闘だった。
アキャブはインドとの国境に近く、港湾施設、飛行場を持った重要拠点だったため、常にイギリス軍の攻撃にさらされていた。

ビルマ(ミャンマー)全図 左端がアキャブ


<緬甸(ビルマ)方面軍の創設>
1942年(昭和18年)5月、英米中軍を放逐し全土制圧を南方(総)軍に報告した後も、ビルマの日本軍は第15軍の僅か4個師団(第33師団、第55師団、第18師団、第56師団)しか存在しなかった。
しかし1942年末から英米中軍の戦力整備が進み、イギリス軍は12個師団まで増強するなどして、再びビルマへの圧迫が強まっていた。

これに対して大本営も、ビルマの防衛には従来の第15軍の4個師団では不足として、1943年(昭和18年)3月27日に緬甸(ビルマ)方面軍を創設した。
この戦闘序列(戦時に発令される、ある軍事作戦に対する作戦部隊の臨時編制)では、
①再編された第15軍は、第15師団(祭・豊橋・京都)、第31師団(烈・バンコク)、第33師団(弓・仙台)の3個師団。
②1944年(昭和19年)1月15日編成の第28軍は、第2師団(勇・仙台)、第54師団(兵・姫路)、第55師団(楯→壮・善通寺)の3師団。
なお第55師団は、1943年10月23日の師団長交代時に、通称号を「楯」から「壮」に変えている。
③4月28日編成の第33軍は、第18師団(菊・久留米)、第56師団(龍・久留米)の2個師団。
④方面軍直轄部隊として、第49師団(狼・京城)、第53師団(安・京都)
の、全10個師団で編成された。

因みに旧日本陸軍で「方面軍」(Area Army)とは、「総軍」の下にあり、通常最低でも4個軍で構成された。
序列では、総軍(Theater General Army 複数方面軍によって構成)、方面軍、軍(複数個師団によって構成される戦略単位)、師団(Division一正面の作戦を遂行する最小の戦略単位)と言うことになる。

兵力的には、「師団」の基本構成は平時の編成では概ね以下だった様だ。
軍隊の最小単位である「分隊」(Squad)は兵10名で構成され、その上位の「小隊」(Platoon)は4個分隊(総数約40名)で構成。
さらに上位の「中隊」(Company)は3個小隊(総数約120名)で構成され、上位の「大隊」(Battalion)は4個中隊(総数約500名)で構成。
さらに上位の「聯隊」(Regiment)は3個大隊(総数約1500名)で構成され、通常の師団(Division)は、歩兵聯隊を3個聯隊(総数約4500名)と、砲兵聯隊、騎兵聯隊、工兵聯隊、輜重兵(兵站を担う輸送部隊)聯隊、師団直属部隊、そして師団司令部を持ち、概ね15,000名から20,000名で構成されていた。
「旅団」((Brigade)は、数千名規模だったらしい。
「戦時編成」では、この平時の編成にさらに兵力を増して編成されていたようだ。

これら新たに編成された部隊は、1942年(昭和17年)5月に英米中軍がビルマから退却したルートが、再進入時のルートと想定されるため、ビルマ全土に以下の配置とされた。
第15軍は、スリム中将の英印軍がチンドウィン河を越えて退却したインパール方面の守備に。
第28軍は、ベンガル湾沿いのラカイン及びビルマ南部の守備に。
第33軍は、孫立人少将の中国新編第38師団と米軍ジョゼフ・スティルウェル中将のアメリカ軍が、インドのアッサム州へ退却したフーコン谷地を第18師団(菊・久留米)が、中国国民党(重慶)軍が怒江(タンルウィン河)を渡って退却した雲南の中緬国境には第56師団(龍・久留米)が守備に就いた。

この間、欧州戦線では、1943年(昭和18年)9月8日、イタリア王国が連合国軍に降伏。
国内では、10月21日、明治神宮外苑で雨の中学徒出陣壮行会が行われていた。