歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <28> 10日目 ヤンゴンの街さんぽ① アパート群とヤンゴンの昔

<10日目ー1
2017年 5月31日 水曜日 ヤンゴン 曇り 暑い。

朝、顔を洗ってから、左右の唇の横の口角炎みたいな爛れに、オロナインを付けてみた。今までは何も付けないでいたが、ヒリヒリしていた。
原因は疲労?免疫力の低下?ウィルスや細菌の繁殖?ビタミンなどの栄養不足?どれも?

<ヤンゴンの街>
ヤンゴンは久しぶりに雨が上がった。
外に出ようとするが、ランドリーが戻って来ず、着るものが無い。仕方無く、今までホテルの部屋だけで着ていた登山用の派手な蛍光色の黄緑色のシャツに、着始めて何日目かの黒っぽいフード付きの薄手のパーカーを上に羽織り、下はヤンゴン到着以来のグレーの登山用ズボンだ。足元はサンダル履き。傘の入ったサブザックを持って出掛けた。

ホテルからタクシーを頼んで、スーレー・パヤーに向かう。
雨の降らないうちに、旧英領時代の建物などダウンタウンの街歩きをしてみよう。それに、やっぱりヤンゴン川の川面が見たいなぁ〜!!
タクシー代は、ダウンタウンのランドマークのスーレー・パヤーまで、2,500ks(約200円)。

大渋滞の中、タクシーはノロノロとマハバンドゥーラ通り(Mahabandoola Rd.)を東に向かう。
周囲は7、8階建てのアパートが立ち並んでいる。元はコンクリートや煉瓦色だったと思うが、既に古色蒼然として色が無く、代わって長年の風雨で黒ずんでいる。
表には久しぶりの晴れ間に、洗濯物が干され、ベランダの植木が緑の葉を茂らせている。
これらほぼ高さの揃ったアパート群が、延々と続く。

いま泊っているホテルの7階にあるダイニングから周囲を見ても、市内にバンコクはおろか、ホーチミン市(サイゴン)やプノンペンに建ち始めた様な近代的な超高層のビルはまだないが、一部に巨大なショッピングモールも出来始めている。
しかしこのダウンタウンで多くの庶民の暮らす街は、殆どが7、8階建てのアパート群で、一戸建ての家屋は殆ど無い。裏通りに行けば一戸建ての住宅もあるのだろうか。
しかもこれらのアパート群は、建ってから年月が経っている建物ばかりだ。一体これらは、いつ頃建てられたのだろう。

旧いアパート群が続く

久しぶりの晴れ間で、ベランダには洗濯ものが干されている

<ヤンゴンの歴史(英領ビルマまで)>
18世紀半ばの下ビルマ、エーヤワディー河のデルタ地帯は、イギリス、フランスのヨーロッパ諸国がしのぎを削っていた。
さらにヤンゴン川 Yangon River(フライン川 Hlaing River)とバゴー川(Bago River)に挟まれ、ヤンゴンとは川を隔てた対岸にあたるシリアム(Syrium)にはモン族が根拠地を置き、ビルマ族も自分たちの国を再建しようと覇権抗争の最中にあった。

今のヤンゴンは、ビルマ全土の統一王朝のコンバウン朝(Kon baung Dynasty)を建てたビルマ族のアラウンパヤー王(Alaung Paya)が、1754年下ビルマの当時「ダゴン」(「丘」の意味)と呼ばれていたモン族の町を占領し、「ヤンゴンYangon」(戦いの終わりの意味)と改名したところから始まった。
当時「ダゴン」は川沿いの一村だったが、ビルマ最大の仏塔「シュエダゴン・パヤー」があり、その門前町となっていた。

1824年第一次英麺戦争に続く1852年の第二次英麺戦争で、下ビルマはイギリスの植民地となり、ヤンゴンはラングーン(Rangoon)と改名して下ビルマの首都となる。
1885年第三次英麺戦争の結果、上ビルマ(首都マンダレー)を支配していたコンバウン朝が滅亡し、ビルマ全土はイギリスが占領し、ラングーン(ヤンゴン)を首都とする英領インド帝国ビルマ州が成立した。

ヤンゴンを取巻く河川

<英領ビルマでのヤンゴンの都市計画>

英領インド帝国ビルマ州の州都となったヤンゴンを、イギリス人は、名称を「ラングーン(Rangoon)と改名。「ラングーン」とは、「ヤンゴン」の英語風に訛った呼び方らしい。
ここでもイギリスの他の植民地の都市を真似た町作りが始まる。

ラングーン(現ヤンゴン)は、エーヤワディー河支流のヤンゴン川の北に築かれた。
当時の状態は、川辺には、川から引き込まれた広い池に囲まれてスーレー・パヤー(Sule Paya)が立地し、市街地は堤防に囲まれていたらしい。

最初に開発されたのは、西はフライン川(Hlaing River)、南はヤンゴン川(Yangon River)、東はパズンダウン運河(Pazundaung Creek)に挟まれた地域だった。北は鉄道路線の直ぐ南を東西に走るボージョー・アウン・サン・ストリートが境界で、ほぼ今のダウンタウンのエリアだ。

軍の技師の設計で、スーレー・パヤーを取り囲んでいた池を埋め立て、スーレー・パヤーを市街地の中心として道路の真ん中に置き、その周囲を道が迂回して行くラウンドアバウト(roundabout 環状交差点)のようにした。そしてヤンゴン川の河辺から、道路が碁盤の目の様に走る様に設計された。
そして、20世紀初頭までに、街の中心部では煉瓦作りの庁舎や社屋が建ち並ぶようになった。

そしてその後、都市の発展と共に市街地も拡大してゆく。
1938年ころにはラングーンは北方に拡大し、インヤー湖の南側付近まで大きくなっていったらしい。

<英領ビルマ時代のヤンゴンの社会>
この時代のヤンゴンの大きな特徴は、何と言ってもインドから流入する大量の移民労働者だった。20世紀の初頭には、ヤンゴンの人口の過半数をインド人が占めていたらしい。
都市の下層民は、インド人の単身出稼ぎ労働者と、ビルマ人の家族居住者の二極化する状況だった。
1920年代、ビルマ人を中心とする家族居住民の一戸建て家屋の密集地域を、植民地政府のビルマ州政庁は、「スラム」として駆逐の対象とした。
立ち退かせて空いた土地を造成して、移民労働者を収容する集合住宅を建設し、ビルマ人下層民は、市の中心から遠く離れた場所へ追いやられた。

植民地は経済の発展の為には多数の労働力が必要だった。
しかしこれにより犯罪の増加や、疫病の蔓延も懸念され、1910年にラングーン港(現ヤンゴン港)に於ける強制種痘政策など行わざるを得なくなり、一時は移民の統制も必要視されたらしい。
それでも、第二次大戦前、ラングーン(ヤンゴン)の人口50万人の裡、55%はインド人や南アジア人で、ビルマ人は30%、その他はカレン人、イギリス人、中国人だった

しかし1948年1月4日ビルマはイギリスから独立し、1962年軍事クーデターを起こして政権に就いたネ・ウィン政権の排外的な政策で、南アジア人はそのほとんどがビルマを離れて行った。