<13日目ー5>
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。
<インパール作戦(「ウ」号作戦)>
ビルマ戦線に於いても、状況は後退戦に入りつつあった。
当時第15軍の司令官となっていた牟田口廉也中将は、攻勢を掛けてくるイギリス軍の反攻拠点であるインドのマニプル州インパール(Imphal)を攻略し、同時にインド国民軍によってインド領内に自由インド仮政府の旗を立てることで、インド独立運動を活発化できるのではと考えていた。
インド国民軍(INA: Indian National Army)は、インド独立運動の英雄スバス・チャンドラ・ボーズ(Subhas Chandra Bose)が、1943年10月にシンガポールで設立を宣言した自由インド仮政府(Provusional Government of Free India)の軍隊組織だ。
1944年1月には、ラングーンへ進出していた。
しかしインパール攻略のためには、川幅1000mのチンドウィン河(Chindwin)を渡河し、標高2000mのアラカン山脈(Arakan Mountains)を踏破しなければならない。しかもこの作戦で必要とされる補給量は第15軍全体で56万トンと推計されていたが、当時の第15軍の持つ輜重隊の輸送力は、その十分の一の僅か5.7万トンしかなかった。
このため牟田口中将は、3週間分の糧秣(人の食料と軍馬の餌)を持たせて、インパールを急襲し、占領する案を立てた。
彼は「マレー作戦」時、シンガポールを攻略した第18師団長で、この時は補給を兵站能力の劣る自軍の補給部隊に頼らず、占領した先々で敵より鹵獲した食料で戦うことが出来た。
このため軽装備で進撃することが可能で、僅か70日でシンガポールを陥落させたという「成功体験」をもっていた。
しかし問題は作戦が長期化した場合の補給が困難であり、ビルマ方面軍はこの案を無謀と考えたが、南方(総)軍と大本営は最終的にこの案を支持した。
<「インパール作戦」の発令 第15師団(祭・豊橋/京都)、第31師団(烈・バンコク)、第33師団(弓・仙台)>
正式に発令された「ウ号作戦」(インパール作戦)に参加する兵力は、第15軍隷下の第15師団(祭・豊橋/京都)、第31師団(烈・バンコク)、第33師団(弓・仙台)の3個師団で約5万人、その他第15軍直轄部隊約35,000人、総数約85,000人。但し、チンドウィン河を越えたのは6万人だった。
対するイギリス軍は、インパール付近に第14軍の第4軍団(3個師団)、コヒマ付近に第33軍団(2個師団)、総数15万人程度が配されていた。
1944年(昭和19年)3月8日第33師団(弓・仙台)に、3月15日第15師団(祭・豊橋/京都)、第31師団(烈・バンコク)に作戦を発起。
3月8日、第15軍の主力である第33師団2万名は、イギリス軍の空襲を避けて、夜の闇の中でチンドウィン河を渡った。インド国民軍第1師団6000名も同行していた。
第33師団(弓・仙台)は仙台で編成された師団で、支那派遣軍隷下の第11軍で中支の作戦に従事していたが、英米戦開戦直前に南方軍第15軍に転入後、1942年(昭和17年)1月第55師団(楯・善通寺)と共にタイからビルマへ国境を越え、3月8日ラングーンを占領した師団だ。
主力の歩兵団は歩兵第213聯隊(水戸)、歩兵第214聯隊(宇都宮)、歩兵第215聯隊(高崎)。
インパール盆地を南から北進するため、カレーワ(Kalaywa)から標高2,500mを越えるミンタミ山系を越え、インパールに通じた「パレル道」を進む。
シンゲルで退却が遅れたイギリス軍第17インド軽師団と遭遇し、第33師団がこれを包囲し攻撃するが、救援に来たイギリス第4軍団の2個師団に逆に包囲され、辛くも脱出するなど、当初から順調な進軍は出来なかった。
しかし陽動作戦のアラカン(ラカイン)地域における「ハ号作戦(第二次アキャブ作戦)」により、第55師団(壮・善通寺)がベンガル湾沿いのラカイン州(Rakhaing State)アキャブ(Akyab 現シットウェーSittwe)でイギリス第15軍団(4個師団)を足止めしていてくれたため、苦戦しながらも前進して、作戦発起より5週間後の、4月8日にはインパール平地の入口まで到達した。
この時点で既に、インパール占領を3週間でと言う目論見からは大きく遅れていた。
3月15日、軽装備の師団である第15師団(祭・豊橋/京都)がチンドウィン河を越えた。
第15師団の編成は豊橋、京都。後方守備担当を目的に編成された歩兵3個聯隊編成の警備師団で、支那派遣軍隷下の第13軍に属していたが、1943年(昭和18年)6月第15軍に編入され、上海、サイゴン、バンコクを経てビルマに着いていた。
主力は歩兵第51聯隊(京都)、歩兵第60聯隊(京都)、歩兵第67聯隊(敦賀)。
第15師団(祭・豊橋/京都)はミンタミ山系を突破して、第33師団を援護するためインパールの北方にあって、補給路の中継地であったコヒマ(Kohima)とインパールの連絡路を遮断し、その後、南からの第33師団に呼応して、北からインパールへ突入するのが目的だった。
ミンタミ山脈、アラカン山脈を踏破し、幸い大きなイギリス軍の防衛線に当たらず、3月28日には、コヒマ(Kohima)・インパール連絡路上のミッションに到達した。
この連絡道路は、幅員15mでアスファルト舗装されており、通る車両の数と運ばれる物資の量に、日本軍兵士が日本の大都市でも見ない光景だと驚嘆した報告がされている。その位日英軍の補給体制に大きな差があった。
翌3月29日、橋梁を爆破して「連絡路」の遮断に成功する。
4月11日、第15師団(祭・豊橋/京都)は北側からインパール平地の入口に迫るが、イギリス軍の砲撃や空爆などの猛烈な反撃に遭い停滞。25日分の食料しか携行していないため、相次いで第15軍司令部に補給を求めたが、補給は来なかった。
一方、日本軍がコヒマ(Kohima)・インパール連絡路を遮断したため、一時的にインパールの状況が危うくなったが、これを救ったのが連合国軍の圧倒的な航空戦力で、「ダコタ Dakota」(C-47 米国ダグラス社のDC-3の軍用輸送機型)を中心とする輸送機で、大量の人員や物資をインパールへ補給していた。
第31師団(烈・バンコク)も、3月15日チンドウィン河を渡った。
インパールを直接攻撃する第33師団や第15師団の支援のため、コヒマを占領し、イギリス軍の増援、補給を断ち切るのが目的だった。
コヒマはインパールの東方60Kmにあり、ベンガル・アッサム鉄道とコヒマ(Kohima)・インパール連絡路の結節点で、東インドの最重要な補給基地だったディマプル(Dimapur)とインパールを結ぶ幹線上にあった。
第31師団(烈・バンコク)は、1943年3月22日タイのバンコクで編成された。
主力は歩兵第58聯隊(新潟県の高田)、歩兵第124聯隊(福岡)、歩兵第138聯隊(奈良)。
歩兵第58聯隊(高田)は中国大陸の徐州会戦に参加し、1942年(昭和17年)12月マレー半島の警備に就いた後、1943年(昭和18年)3月に第31師団へ編入され、ビルマに移動していた。
歩兵第124聯隊(福岡)はもと第18師団(菊・久留米)隷下だったが、1941年(昭和16年)11月の編成変えで第35旅団(川口支隊)の指揮下に入る。英米戦開戦後は蘭印(現インドネシア)のボルネオに上陸して、ミリーおよびセリアの油田を占領。その後フィリピン戦、ガダルカナル戦に参加し、1943年(昭和18年)2月初めガダルカナル島撤退の後、サイゴンに於いて第31師団に編入されている。
師団はこれら歴戦の歩兵連隊が集まっていた。
第31師団(烈・バンコク)の進路は、標高3000mを越える山岳地帯だった。
3月18日インド国境を越え、標高1,500~2,000mの稜線を突破して、最左翼を進んでいた歩兵第58聯隊(高田)などを主力とする第31歩兵団宮崎支隊は、ウクルル、本来は第15師団の作戦区域であったサンジャックを攻撃し、4月5日にはコヒマ市街地へ突入しこれを占領した。
この時、第31師団の本体は、コヒマの東方にあって市内には入っていない。
しかしその後、制空権は完全にイギリス軍にあったため、空からの攻撃も受けつつ、インパールとディマプルからの連絡路が通るコヒマ三叉路高地に布陣したイギリス軍と、約2カ月に渡り激しい攻防戦が続いた。
乾季の3月に始まった「3週間でインパールを占領」するはずの作戦は、既に3カ月を経過し、ビルマは土砂降りの雨季に入っていた。
宮崎支隊歩兵第58聯隊(高田)兵士の手記には、携行品は米3日分、調味料(塩)、小銃弾120発、手榴弾2発の完全武装で、「転ぶと一人で起きることが出来ない程の重量を背負」って出発したとあるが、その後の補給が全くなく、飢えや戦傷で衰弱し、死者や戦病者が大量に発生していた。
<大陸打通作戦(一号作戦)>
この間中国大陸では、1944年(昭和19年)4月17日「大陸打通作戦(一号作戦)」が開始され、12月10日まで続けられていた。
河南省から南寧まで、作戦距離2,400Km。因みに日本の北海道から九州までが約2,300Kmだ。投入兵力は約50万人、800両の戦車、7万頭の馬匹が投入された史上空前の大作戦だった。
対する中国側は、1944年1月時点で全土に300万人の国民党軍(重慶軍)が居た。
この作戦の目的のひとつは、中国西南地区に築かれたアメリカ陸軍航空隊の基地を占領することだった。
1943年(昭和18年)11月25日に、中国大陸の基地を飛び立った米中軍のB‐25爆撃機と護衛のP51戦闘機により、初めて当時日本領だった台湾の新竹(Hsirchu)にあった日本軍の基地が爆撃され大きな損害を出していた。
さらに航続距離の長い米国の新型機B‐29爆撃機の配備で、北九州への空襲の危機感が高まっていたためだった。
二つ目は、華北と華南を結ぶ京漢鉄道(北京-漢口)を確保して、インドシナ半島からの南方資源を日本本土に陸上輸送することだった。
当時、オーストラリアやハワイを基地とするアメリカ軍の潜水艦による通商破壊のため、日本の海上輸送は大きな損害を受けつつあった。
また大本営は、1943年9月から太平洋戦域での絶対国防圏を構築するため、中国戦線から部隊を抽出(甲号転用)しつつあった。
5個師団を即時転用し、更に機甲師団1個を含む5個師団を大本営直轄部隊としたので、中国大陸で戦っていた支那派遣軍(総軍)は、開戦時の兵力約90万人から62万人へと大きく兵力を減少させていた。このため、広大な中国大陸を、少ない兵力で戦線を維持するためにも鉄道の確保は最重要だったのだ。
この作戦の結果、日本軍は京漢鉄道を確保し、更に中国大陸のアメリカ軍航空基地の占領には成功したが、アメリカ軍はまた航空基地をより内陸奥に移動した。
しかし何より、この作戦期間中の1944年7月にサイパンなどマリアナ諸島が陥落したため、日本本土の大半は此処を基地とするB‐29米軍爆撃機の作戦圏に入ってしまっていた。
1944年(昭和19年)5月11日に、中国国民革命軍雲南遠征軍16個師団の大軍が、再びビルマと中国国境の怒江(サルウィン河)を渡ってビルマに進出して来た。
対岸には第33軍の第56師団(龍・久留米)が布陣していたが、緬甸(ビルマ)方面軍は応援にフーコン戦線から下がって来ていた第18師団(菊・久留米)と第28軍の第2師団(勇・仙台)を増援し、ビルマルート遮断の堅持を命令(「断」作戦発令)していた。