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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <45> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑨ イラワジ会戦② ビルマ最後の大会戦とは

<13日目ー10
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。何故此処に、こんなに沢山の慰霊碑が建っているんだろう。いまはその前にいる。

<新たな作戦の発令 イラワジ会戦 第15師団、第31師団、第33師団、第49師団、第53師団>
1944年(昭和19年)12月、緬甸(ビルマ)方面軍は、インパール作戦を戦って来た第15軍に対し、イラワジ河(エーヤワディー河)を防衛線としてイギリス軍を撃滅する「盤作戦」を発令した。
さらに「盤作戦」実施に際して、第15軍を以てイラワジ会戦を主宰させ、怒西(雲南)方面「断作戦」の第33軍、アキャブ方面「完作戦」の第28軍は、なし得る限りの兵力でこれに協力するとされた。

しかし1945年(昭和20年)1月末の日本軍の戦力は、インパール戦や雲南戦、南西部沿岸域のアキャブ戦など、多くの熾烈な戦闘を経てきたため、1941年(昭和16年)12月の英米戦開戦当時と異なり、以下の様に著しく損耗していた。各師団の残存兵力は以下。
①第15軍 第15師団(祭・豊橋/京都)4000名、第31師団(烈・バンコク)6290名、第33師団(弓・仙台)4300名。
②第28軍 第54師団(兵・姫路)、第55師団(壮・善通寺)で約40000名。第2師団(勇・仙台)不明。
③第33軍 第18師団(菊・久留米)7190名、第56師団(龍・久留米)6445名、第53師団(安・京都)4853名。
④方面軍直轄 第49師団(狼・京城)4853名。

旧日本陸軍の師団兵力は、平時編成では概ね15000名から20000名で構成され、戦時編成ではさらに増強されるのが普通なので、各師団がいかに損耗していたかが分かる。
航空戦力は、第5飛行師団の僅か64機のみだった。

この後「イラワジ会戦」と呼ばれる「盤作戦」を発令された第15軍は、参加の3個師団合わせても総勢15000名弱で、平時編成の1個師団にしかならない。しかもインパールからの撤退がほぼ完了したのは11月末で、十分な補給も、特に殆どが失われた重火器の補充が十分整っていなかった。

これに対し、進攻してくるイギリス第14軍は6個師団、2個戦車旅団、3個歩兵旅団。
航空戦力は1200機だった。

通常の英印軍の師団は殆どがインド人兵士で編成されていたが、この第14軍にはイギリス人のみで編成された第2英師団も含まれていた。
因みに英印軍(British Indian Army)とは、イギリス領インド帝国(1857年~1947年)のインド軍のこと。
イギリス領インド帝国は1855年のインド大反乱(シパーヒ―の乱)以後、イギリスがインドで成立させたインド帝国(British Raj)で、イギリス人総督が置かれ、イギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合で、事実上の植民地だったが、名目上は独立国だった。
日本軍政下で誕生したビルマ国に近い。
第二次大戦に参加したカナダやオーストラリアの様な、イギリス連邦内の自治国とは異なっていた。
従ってインドは今次大戦にイギリスの同盟国として参戦していたので、名目上は連合国軍の一員だった。
このイギリス領インド帝国の軍隊であるインド軍は、在外イギリス人将校と共に、インドで募兵された軍隊で、第二次大戦では、英印軍は250万人を超える志願兵からなる軍隊で、欧州戦線やアジア戦線に派兵されていた。
さらに連合国軍には在インドのイギリス軍部隊(British Army in India)なども含まれていたのだ。


<何故イラワジ河畔に決戦を求めたのか>
ビルマの戦略的価値は、米中軍による援蒋ルートの打通以後、タイ、マレー、インドシナ半島のための西域防衛の役割程度となっていた。
しかしインパール作戦で惨敗した緬甸(ビルマ)方面軍は、次期会戦場をマンダレー周辺のイラワジ河畔に選び、チンドウィン河を越えて来る英印軍、マンダレー北方からの英印軍や中国インド遠征軍に対し防衛準備を進めていた。

中部ビルマ、特にイラワジ河南岸一帯の地形は、平坦で荒涼とした半砂漠地帯で、機動性のある連合国軍(英印軍、中国インド遠征軍)には格好の場所だが、反対に機動性のない寡兵の日本軍には戦うのに困難な地形だった。
さらに方面軍の任務は、タイ、マレー、インドシナ半島のための西域防衛の役割であり、このための戦略は「持久」だった。
そのためには過早の決戦を避け、戦力の温存を図り、粘り強く連合国軍の進撃を阻止することが必要だった。
しかし寡兵の日本軍が持久するために必要不可欠な自然の要害は、マンダレー付近で川幅約450m、平地では約1800m、チンドウィン河との合流地点では最大約3700mの川幅を持つイラワジ河(現エーヤワディー河)しかないかった。
これでは「持久」を望んでも、否が応でも「決戦」にならざるを得ない危険を孕んでいた。

イラワジ河(エーヤワディー河)南岸は、一面の半砂漠地帯だ

軍の中には、援蒋ルート(レド公路)が回復されて仕舞った以上、ビルマ進攻の目的が失われたため、戦線を縮小してタイ国境内に引き上げるべきとの意見もあった。
しかしビルマ戦線がタイとビルマ国境まで後退すれば、従来のラングーンーラシオー昆明間の圧倒的に輸送量の多い援蒋ルート「ビルマルート」も再開され、支那派遣軍による中国大陸での作戦基盤が危機に陥る可能性があった。

さらに、ビルマでインパール作戦中の1944年(昭和19年)6月6日に、連合国軍がフランスのノルマンディーに上陸して、ヨーロッパで第2戦線が生まれていた。
この上陸作戦の進行と共に、フランス本国に於けるドイツの傀儡政権であるヴィシー政権の存続が危ぶまれていた。
もしヴィシー政権が崩壊すれば、日本の仏印進駐を許容した仏領インドシナ植民地政府も反日に豹変する可能性があり、日本のインドシナ政策が危機を迎えかねない。
また仏領インドシナの隣国であり、インドシナ半島の要である同盟国の泰(タイ)国の安全も脅かされ兼ねなかった。
日本軍のビルマからの撤退(敗退)は、微妙なインドシナ情勢に悪影響を及ぼしかねなかった。

事実、イラワジ会戦直前の1945年(昭和20年)1月27日、インドシナ駐在フランス軍の反日行動を、事前に武力を以て制圧する「明号処理」のため、方面軍直轄になってトング―に集結していた第2師団(勇・仙台)の主力(一部をビルマに残して)を、南方軍命令でビルマから抽出し、印度支那(インドシナ)駐屯軍である第38軍指揮下に編入して、サイゴン(現ホーチミン市)方面に転進させている。
インドシナ半島に混乱が生じれば、「大陸打通作戦」などで辛うじて確保している本土と南方圏が分断され、戦争継続能力はたちまち枯渇すると考えられていた。

一方怒西方面を担任する第33軍司令官は、緬甸(ビルマ)方面軍に対し、防衛線上に自然の要害が多く、作戦正面の戦域が狭く、インパール作戦で大きく損耗した自軍戦力に見合ったトング―の線まで南下後退し、此処で持久するべきと意見具申していた。

トング―(ToungooまたはタウングーTaungoo)とは、ラングーン(現ヤンゴン)からマンダレーに通じる鉄道線沿いの要衝で、西にペグー山系、東はシャン高原が迫った狭隘地で、シッタン河沿いにあり、南ビルマへの入口の様な場所だ。
歴史的には1531年から1752年までつづいた、パガン王朝に次いで二度目の統一王朝であるタウングー朝が誕生した場所でもある。

しかし方面軍は、次期会戦場をマンダレー周辺のイラワジ河畔に選ぶ必要性を強く感じていた。
これは、現在南方軍は総力を挙げてにフィリピンに於ける決戦準備に没頭しているため、緬甸方面軍は、独力でビルマの防衛を遂行し、長く自給自戦する体制をとる必要があるためだった。

①長く自給自戦するためには、イラワジデルタの米とエナンジョンの油が絶対に必要だった。
対英米戦開戦前のイギリス領ビルマでは、イラワジ河デルタ周辺の肥沃な土地を利用し、マングローブ林を一掃して、米の生産を行い、米の生産・加工はビルマの一大産業となっていた。中部ビルマを放棄し、ビルマ全体での覇権を失えば、この米の取得も難しくなる。
またエナンジョンやチョークの油田は、蘭印スマトラ島パレンバンの油田(1943年(昭和18年)に年間788万キロリットル)には遠く及ばないものの、1943年(昭和18年)には年間159000キロリットルの産出量を得ていた貴重な油田だった。
これはトング―まで戦線を下げて仕舞えば、地理的にもこれを放棄することになる。

②そしてマンダレー。
マンダレーはビルマ族最後の王朝コンバウン朝の都だったところで、ビルマ人心の変換線と言われ、同地を放棄すれば民心の離反は免れないと考えられていた。
戦局の悪化で、既に随所で住民の蜂起や離反が現れていた。
英軍の航空機などによる反日宣伝で、軍票は下落して、戦線の近くでは全然通用せず、日用品や塩などの現物でなければ糧秣も手に入らず、人夫も雇えなくなっていた。
さらに住民で敵に内通するものが多く、敵はこれらの通報により戦場の要点を有効に爆撃している様子だったが、そのうち軍の戦闘指令所が襲われ、2名の参謀が直撃弾を受け戦死するなどしていた。

③同盟国であるビルマ国や、ラングーンに在ったチャンドラ・ボースの自由インド仮政府に対して、方面軍が戦わずしてビルマの大半を放棄することは許されないとの思いだった。

これらの判断より、方面軍も援蒋ルート(レド公路)遮断を諦め、南ビルマの防衛を任務と考えていた。
このため、1944年7月3日、インパール作戦の中止と共に、ラシオ、マンダレー、バコックの線、中部イラワジ河西岸に敵の進出を阻止するよう命令したのだろう。
しかしこれは、いかにも優秀な軍事官僚が各要素を遺漏なく網羅して作り上げた作戦だが、此処では前線で戦う将兵の犠牲という要素は、いかにも軽い。

ビルマ全図と防衛拠点

 

<イラワジ会戦への兵力配置と会戦前夜>

日本軍はイラワジ河(エーヤワディー河)を防衛線としてイギリス軍を撃滅する作戦で、マンダレーの北に第15師団(祭・豊橋/京都)を配置し、ここに来る英印軍や中国軍への反撃作戦を「三号攻勢」とした。
マンダレー前面のサゲイン(現ザガイン)を中心としたイラワジ河湾曲部(ベンドBend)に第31師団(烈・バンコク)を配置し、ミンム方面への反撃作戦を「一号攻勢」、キャクタロン方面への反撃作戦を「二号攻勢」とした。
第33師団の左翼で、イラワジ河のミンギャン以南を第33師団(弓・仙台)で固め、ここに来攻する英印軍への反撃は「四号攻勢」とされた。
そして、後詰としてその後方のマンダレー南部のキャウゼに、第53師団(安・京都)を配置した。

第53師団(安・京都)は、1941年(昭和16年)9月16日京都で編成された師団で、徴兵区は京都、滋賀、三重、福井。
編成後は本土の中部軍隷下だったが、1943年(昭和18年)11月、南方軍予備として派遣され、1944年(昭和19年)1月緬甸(ビルマ)方面軍直轄部隊として、サイゴン、シンガポールを経てビルマに入っている。
フーコン作戦末期に、第18師団(菊・久留米)の退却と雲南方面への転進を援護し、その後の4月29日、第33軍に編入。
1944年(昭和19年)7月16日、インドウに転進後は第15軍指揮下となっていた。
主力の歩兵団は、歩兵第119聯隊(敦賀)、歩兵第128聯隊(京都)、歩兵第151聯隊(津)。

イラワジ会戦時の部隊配置

イラワジ河南岸から見たサゲイン(現ザガイン)の丘陵

方面軍は英印軍の反攻は、まずはマンダレー北方で強力な牽制攻撃を行った後、マンダレー以西のミンム、またはキャクタロン正面に主勢力が攻勢して、決戦を強要するものと考えていた。

しかし部隊配置は行ったが、作戦正面は200Km以上の広範囲に及んでいた。1個師団の担任する正面は80~100Kmに及び、しかも1個師団の実際の戦力は僅か3~4000名と言う劣弱さだった。例えれば通常の歩兵1個聯隊で、東京から小田原、熱海までを作戦正面とする様なものだった。
これでは制空権を持ち、絶対優勢の砲兵、戦車を持つ連合国軍に抗しようがない。
第15軍の作戦参謀は、英印軍がマンダレー北方に来た後、イラワジ河湾曲部(ベンドBend)に来攻したら、軍としては全力をこの方面に結集して反撃するばかりで、それこそ一本勝負で、その後別の方面が危険になっても、もはやこれに向ける兵力は無いと言い、方面軍の参謀も、イラワジ会戦中、ベンガル湾沿いなどの沿岸から敵が大挙上陸した場合は、もはやこれまでで、途中で鉾を転じて南に向き直ることは出来ないとしていた。
またこの作戦を強力に推進した方面軍の田中新一参謀長すら、方面軍はこの「盤作戦」(イラワジ会戦)で、全軍覆滅の悲運に遭うかもしれないと考えていた。

また第33師団長は、「絶対優勢の(敵の)砲爆撃に対し、戦略的にも戦術的にもこの戦闘を敢行する以外に手なし。兵団を挙げて斬り込みに徹底せんとす」と言い、また第15師団長も「聯隊火力の骨幹たるべき聯隊砲(四一式山砲 砲口径75mm、砲身長1379mm、重量539Kg、馬6頭で分解運搬、馬2頭で牽引運搬が可能)は皆無で、ようやく大隊砲(九二式歩兵砲 砲口径70mm、砲身長790mm、重量204Kg)が1門か重機関銃(九二式重機関銃 口径7.7mm、銃身長72.1mm、重量27.6Kg、装弾数30発)1銃を持つ程度」と語っているほどで、この頃の日本軍の戦法は、殆ど夜襲と斬り込みしか無くなっていた。