歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <43> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑦ 反ファシスト人民自由連盟の結成と援蒋ルート「レド公路」の打通 

<13日目ー8
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度.。
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。

<反ファシスト人民自由連盟 AFPFLの結成>
1944年(昭和19年)8月1日に日本軍占領下で「ビルマ国」は独立していたが、次第に日本軍の敗色が濃くなると、「ビルマ国」の国防大臣でもあるアウン・サンが副総裁を務めるタキン党と、ビルマ共産党、ビルマ国民軍(BNA)は、秘密裏に反日組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL: Anti-Fascist People’s Freedom League ビルマ語略称はパサパラ)を結成していた。

<援蒋ルート(レド公路)の打通>
1944年8月3日にフーコン渓谷から南下、進軍して来た米中軍インド遠征軍(新編第1軍、第6軍)は、ミートキーナ(Myitkyina)を占領したあと、しばらくその地を動かず体制を整えていたが、11月9日にバーモ北東のミョチットを攻撃して来た。

11月15日には要衝のバーモを攻撃。
バーモ(Bhamo)を守っていたのは、第2師団(勇・仙台)の歩兵第16聯隊(新発田)第2大隊(600名)を主力とする守備隊だった。
激しい砲爆撃に、バーモ守備隊1180名は善戦するが、支えきれず血路を開いて脱出する。
19日~21日にナンカンまで到着したのは930名だった。
12月14日、米中軍インド遠征軍は、ついに要衝のバーモ(Bhamo)を占領した。さらにナンカン(Nam Kam)に迫って来た。

バーモはフーコン谷地からの道と中国雲南への道が交わる要衝

ビルマ(ミャンマー)北部図

 

一方1944年5月11日に、中国の雲南から怒江(サルウィン河)を越えて進攻して来た中国雲南遠征軍は、怒江西岸を守っていた第33軍の第56師団(龍・久留米)を圧迫しながら、11月3日、日本軍守備隊が撤退後の龍陵を抜き、芒市を攻略しつつ西進して、1945年1月初め、ワンチンに近迫した。
この時ワンチン、ナンカン地区に結集された連合国軍(英米中印)の兵力は、約20個師団に及んでいたらしい。

そして1945年(昭和20年)1月27日、中国雲南遠征軍と米中軍インド遠征軍(新編第1軍、第6軍)はレド公路上のワンチン、ナンカン間で合流し、「レド公路」と「ビルマ公路」は接続・打通(抵抗を排して、目的地まで通すこと)し、再び援蒋ルートが回復した。

打通されたレド公路(援蒋ルート)


<中国インド遠征軍の一部が中国本土に召喚>

一方日本の支那派遣軍が、中国大陸で1944年(昭和19年)4月から11月下旬まで行っていた史上空前規模の「大陸打通作戦(一号作戦)」によって、南部京漢線及び湘桂鉄道の打通を終え、大陸沿岸域の米軍航空基地を破壊して、重慶軍(国民党軍)に大きな打撃を与えていた。
大陸打通作戦(一号作戦)の目的は、主に中国西南地区に築かれたアメリカ陸軍航空隊の基地を占領することと、華北と華南を結ぶ京漢鉄道(北京-漢口)を確保して、インドシナ半島からの南方資源を日本本土に陸上輸送することだった。

さらに12月10日には、南部の南寧(現広西チワン族自治区の首府で、ベトナム国境に近い)付近に於いて、支那派遣軍が仏印進駐軍(第38軍)と出会い、中国大陸を北支(中国北部)からインドシナ国境(現ベトナム国境)まで南北に打通していた。
このまま支那派遣軍が貴陽まで進撃を続け、次いで昆明、重慶まで進出するかもしれなかった。万が一昆明が陥落すれば、中国戦域はその全戦略基盤を失うことになる。
援蒋ルートも昆明が中国側の中心だった。

これに危機感を持った重慶の国民党政府(蒋介石総統)は、止むなくビルマに派遣していた米軍式装備と訓練を施したインド遠征軍を、援蒋ルート(レド公路)の開通を機に、逐次中国本土に召喚することにした。
1944年(昭和19年)12月には、中国新編第6軍の第14師団と第22師団は、中国本土に帰還している。

中国軍新編第1軍(インド遠征軍)とその当時増えていた第6軍とは、中国兵にアメリカ式の武装と訓練を施し、インドのビハール州やジャールカンド州に配置されていた部隊で、指揮は米軍のスチルウェル大将が執っていた。
その後も、蒋介石総統は全てのインド遠征軍を本国に召還することを要求したが、東南アジア連合軍最高指揮官のマウントバッテン中将が重慶に赴き、インド遠征軍の総引き揚げは、今後のビルマ作戦上大きな支障となる上、せっかく開通したレド公路の再遮断を招く恐れもあると蒋介石総統を説得して、召喚を延期させている。
その結果、中国新編第1軍の第30師団と第38師団、第6軍の第20師団が、その後引き続きビルマで活動を続けることになった。

一方日本軍の中にも、これによってビルマ進攻の目的が失われたため、戦線を縮小してタイ国境内に引き上げるべきとの意見もあったが、緬甸(ビルマ)方面軍は何故か新たな会戦に突き進んで、更に将兵の犠牲を強いることになる。