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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <48> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑫ イラワジ会戦⑤ マンダレーの陥落

<13日目ー13
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまはその前にいる。

<メイクテーラ戦勃発後のイラワジ戦線>
イラワジ会戦は、メイクテーラで戦端が開かれたことにより、イラワジ河畔単独での会戦から大きく様相を転じていた。
同時に2つの会戦を行うことになって仕舞ったのだ。
第15軍も、あとで対応を追従した方面軍も、イラワジ河方面は一旦守勢に転じ、メイクテーラの敵を先ず撃滅し、返す刀でイラワジ戦線を戦うとしたが、そのためにはメイクテーラ会戦の間、イラワジ河畔の第15軍が最小限イラワジ戦線を持ち堪えていることが必要不可欠だった。

しかし1945年(昭和20年)2月24日、メイクテーラに向かう英第17インド師団と第255戦車旅団の機甲部隊が、ニャングでイラワジ河を渡河した日の夜半、マンダレー西方ガズン方面で第2英師団が、新たに渡河攻撃を開始した。
広大な正面を担任する第31師団には、もはやこの敵を攻撃する力はなく、戦線は随所で突破され、敵戦戦車は重砲陣地に迫り、師団の戦闘指令所を襲った。
この間第33師団は、英第4軍団主力によってパコック付近を突破され、師団の左翼附近は崩壊しようとしていた。

急に起こったメイクテーラ会戦のため、只でさえ寡兵な中、現状より更に兵力を抽出して減じていたため、敵の攻勢を現戦線で阻止することは困難だった。
各部隊はいずれも微小な兵力となり、ただ不断の斬り込み、夜襲の反復によって保っていた戦線も、崩壊が迫っていた。

2月下旬まで第19インド師団と第36インド師団を、マンダレー北方シング以北で阻止続けていた第15師団(祭・豊橋/京都)正面では、英印軍が戦車や重砲の渡河完了を以て強力な攻撃が再開された。
第15師団からはメイクテーラ戦のため羽賀部隊(1個聯隊)が抽出されており、力尽きてマンダレー方面に後退。
第15師団はマンダレーに到る後退の間、殆ど統一ある抵抗が出来ず、マンダレー迄一気に押し下げられてしまい、マンダレー城(旧王宮)を中心とした地域での籠城を余儀なくされ、敵の包囲下で防戦中となった。

第31師団(烈・バンコク)正面のマンダレー西方戦線では、英第20インド師団がミンムに、第2英師団がガズンで、第31師団の反撃を粉砕しながら橋頭堡を広げ、前進。攻撃の先をミヨサ方面に転じた。
英印軍の連日の飛行機による爆撃や砲撃の集中砲火を受けながら、随所で一進一退の攻防を続けていたが、その間に重砲、戦車、速射砲の部隊をメイクテーラ戦に転用したため、3月6日~9日、遂に英印軍の戦車が第31師団の戦線を突破した。
このため、第31師団の戦線は崩壊し、3月10日敵の突破を受けマンダレー南方に退却し、3月15日にはキャウセ西方まで後退していた。
このため、南面(北方)からメイクテーラを攻撃中の第18師団(菊・久留米)の背後を、英印軍に広く開放することになって仕舞った。

第33師団(弓・仙台)は、ミヨサ、ミンギャン付近で敵を阻止していたが苦境に陥っていた。パコック南方で戦闘中だった作間部隊(歩兵第214聯隊(宇都宮))をメイクテーラに転用したため、第33軍はパコックを放棄し、師団の最左翼をミンギャン付近に大きく後退させた。
ミンムの北方戦線では、第31師団との作戦地境タリンゴン付近で戦闘中だったが、第31師団の戦線が突破され、溢出して来た英印軍がタリンゴンの側背に迫った。このため師団はタリンゴン方面を後退させ戦線の整理を図ったが、日々激増する損害と相次ぐ部隊の抽出に戦力が激減していた第33師団は、次第にミンギャン方面に圧縮され、敵中に孤立してしまった。

第53師団は、タウンタでメイクテーラに向かう敵後続部隊の東進を妨害しながら奮戦中だった。しかし実質歩兵4個大隊程度の兵力しかないため、十分な戦果はおさめ得なかった。
そのタウンタにも、やがて戦車を伴う有力な英印軍が攻撃して来た。

また当時北部ビルマ(怒西方面)で米中軍と戦闘中だった第33軍も、方面軍司令部により第18師団(菊・久留米)を引き抜かれてメイクテーラ戦に転用されたため、次第にマンダレー方面に追い詰められていた。

メイクテーラ戦への兵力抽出後のイラワジ戦線


<マンダレーの戦い 第15師団(祭・豊橋/京都)>

1945年(昭和20年)3月8日、第15師団(祭・豊橋/京都)はマンダレーに入って、辛うじて市街地確保の配備を行った。
市街の北方にある高さ240mの小高い丘、マンダレーヒルに歩兵第67聯隊(敦賀)。
王城(旧王宮)と外周市街地の東北面に、第31師団第58聯隊(高田)。
外周市街地の東面に、歩兵第51聯隊(京都)、西面に歩兵第60聯隊(京都)を配した。

第15軍に追尾して来た英第19インド師団は、市街を包囲するとともに、王城北方のマンダレーヒルの攻略から始めた。
重囲下の攻撃は3月10日から11日と昼夜を分かたず行われ、戦闘は壮絶な白兵戦となり、英印軍はガソリン缶に点火して、歩兵第67聯隊(敦賀)の火点(機関銃などの火器を備えた陣地)を焼き尽くすなどして迫った。激闘の末、3月12日、マンダレーヒルは陥落した。

敵の戦車は市街地の四方から肉薄し、市街戦となっていた。
約2Km四方の王城の外壁は高さ約7mの厚いレンガ積で、東西南北に広がる城壁の外側には水濠が巡らされている。
英印軍は市街戦、砲撃を繰り返し、王城内の建物は殆どが粉砕されていた。
第15師団の損害は大きく、3月15日の兵力は1500名、後方部隊を合わせても3000名以下になっていた。

マンダレー王宮と市街図

マンダレーヒルから見える王宮方面

3月17日第15軍は、マンダレー市街に籠城中の第15師団に対し、緬甸(ビルマ)方面軍のマンダレー死守命令に反して、敵中を突破してミンゲ川南岸に脱出するよう命令した。
ミンゲ川は、サゲイン付近でイラワジ河(エーヤワディー河)に合流する支流だ。
しかし同師団は、インパール作戦で馬も自動車も無くして、輸送力の多くは民間から調達した牛車に依っていて、僅かに残った火砲も馬ではなく牛に引かせている状態だった。このような状況で敵から離脱するのは至難の業だった。

3月19日夜、マンダレー南方から、重囲下の敵中を突破。
歩兵第60聯隊(京都)が、3月20日夜明け前に市街南方1Kmの農業大学付近まで進出し、その後師団本体が各大隊ごとにそれに続いた。
夜が明けると、敵戦車が農業大学付近に近接、また後方を遮断するように南方に迂回。昼頃にはB-24爆撃機が20数機飛来して、王城を爆撃した。

なんとかマンダレー市街地を脱出したが、ミンゲ川渡河地点で敵の砲火を浴びたため、河の上流で渡河することになった。
殿(しんがり)を務めた歩兵第60聯隊(京都)はミンゲ川で孤立するが、敵中に潜伏し、3月22日ミンゲ川渡河に成功した。

第31師団(烈・バンコク)は、ミヨサ正面で戦線を深く突破され、キャウセ方面に後退していた。このため3月12日、第15軍はマンダレー以北の部隊の南下を容易にするためキャウセの占領を命令。
この第31師団の中で、唯一サゲイン(現ザガイン)の橋頭保に残された歩兵第138聯隊(奈良)の第3大隊(伊東大隊)は、なお同地を守備していたが、3月17日にサゲイン撤退の命令を受け、3月18日夜、濃霧の中イラワジ河南岸に渡河して撤退した。
この時1934年にイギリスが架橋したアヴァ橋(Ava Bridge)は、1942年5月にイギリス軍がビルマから撤退した際破壊されていた。
そして3月20日には、ミンゲ川付近に於いて第15師団を包囲中の敵と交戦し、第15師団の脱出に貢献している。

マンダレーを脱出した第15師団は、南方のイラワジ河支流のミンゲ川で立ち往生する

 

3月10日、1943年(昭和18年)4月以来、第15軍の司令部所在地としてきたシャン高原の街メイミョウが、英第36師団の攻撃を受け攻略された。
メイミョウの失陥によって、この方面からラシオ方面への連絡路が完全に断ち切られて仕舞った。
メイミョウを攻略した英第36師団は、マンダレー方面に進出したため、第15師団はミンげ川以北で一時孤立して仕舞った。その後、第15師団主力が苦難の末、ミンゲ川南岸に脱出したころ、メイクテーラ会戦も苦境に陥っていた。