<13日目ー11>
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまはその前にいる。
<フィリピン・レイテ島の悲報>
1944年(昭和19年)12月、イラワジ会戦の準備中のビルマにも、「レイテ敗戦」の報が伝わった。
フィリピン方面に於ける決戦「捷一号作戦」により、陸軍は当初フィリピンのルソン島に於いての決戦を準備していたが、10月20日、フィリピンに対する陸海軍合同作戦会議で、会議の直前に行われた海軍による台湾沖航空戦の大戦果を踏まえて、急遽決戦場をレイテ島に変更することになった。
台湾沖航空戦は1944年10月12日から15日にかけて行われた戦いで、日本軍航空基地を攻撃するため来攻して来た米海軍機動部隊(空母17隻、戦艦6隻主力)に対し、日本の基地航空部隊がこれを迎撃した戦いだった。
実際の戦果は僅かだった(米重巡2隻大破、航空機89機)が、敵空母11隻撃沈と言う戦果の誤認と海軍の誇大報告で大勝利とされていた。
しかしその後、実際にはいない筈の敵空母が現れ、10月に米豪軍がレイテ島に上陸。
その後日本軍が、物資を集積していたルソン島からレイテ島への輸送中に空襲を受けるなどして、レイテ島の戦いは多くの戦場と同様に、物資や兵士の欠乏状態から悲惨な後退戦を続け、12月20日ついに南方軍はレイテ決戦放棄を決定した。
翌1945年(昭和20年)1月9日には、米豪軍はルソン島リンガエン湾に上陸してきた。
この「レイテ敗戦」の報は、ビルマ方面軍並びに各軍で悲観的な観測を生んだ。
第28軍の参謀は「今後ビルマなどで行われる作戦は、国軍全般、戦局の勝敗に関係のない局地戦に過ぎなくなるだろう」と考えていた。しかし緬甸(ビルマ)方面軍田中参謀長の「与えられた作戦任務が完遂できぬなら、方面軍の全将兵1人残らず荒野に屍を晒すべきだ」と言って、立案した作戦に抗う動きは無かった。
この最中に、イラワジ会戦が始まった。
<イラワジ会戦の始まり>
1945年(昭和20年)1月14日、インパール作戦から退却する第15師団(祭・豊橋/京都)に追尾南進して来た英印第33軍団の第19インド師団が、マンダレー北方、タペイキン、シング付近でイラワジ河を渡河し、第15師団を攻撃して来た。
さらにイラワジ河の上流のカーサ付近でイラワジ河を渡河した第36英師団が、河の東岸沿いに南下して、第15師団の北側に迫って来た。
このため第15軍は「三号攻勢」を発動。
マンダレー南方のキャウセに集結中の第53師団(安・京都)主力を、第15師団援護に向かわせ、第15師団と共に攻撃するが、19日までに英印軍第19インド師団が作った橋頭堡を破れなかった。
橋頭堡とは、河や海を渡って来た部隊を守り、その後の攻撃の足場となる拠点のことだ。
その最中、マンダレー前面のサゲイン(現ザガイン)を中心としたイラワジ河湾曲部(ベンドBend)に、英第33軍団の主力が渡河準備を開始した。
1月22日、英印軍の第20インド師団がマニワ、1月25日第2英師団がミンムで大攻勢を掛けて来たため、守備していた寡兵の第31師団(烈・バンコク)の部隊は堪らず後退。
これを知った第15軍司令部は、1月29日「三号攻勢」を中止し、「一号攻勢」「二号攻勢」への転換を決意して、第15師団を支援に行った第53師団のうち歩兵第119聯隊(敦賀)浅野聯隊を残し、第53師団の主力を再びキャウセに戻して第31師団の後陣に配した。
この後、マンダレー北方では第15師団と浅野聯隊(歩兵第119聯隊(敦賀))は、夜襲に次ぐ夜襲で、北方のシング付近で2月まで英印軍の進撃を阻止し、持久して行く。
その最中第31師団(烈・バンコク)は敵機甲部隊の挺身(コマンド)攻撃を考慮して、歩兵第138聯隊(奈良)をサゲイン(現ザガイン)陣地の左地区隊、インパール戦のコヒマで激闘を繰り広げた歩兵第58聯隊(高田)を右地区隊とし、イラワジ河の南岸には歩兵第124聯隊(福岡)を転進させ、ミンムのイラワジ河岸部と合わせて、ムー川右岸を南下する英印軍を阻止しようとした。
1945年(昭和20年)1月9日以来、進撃して来たシュエボ付近を動かなかった英印軍の空軍は、マンダレー、サゲイン、ミンム、イワテジなど河畔の要域を連日のように爆撃していた。
このシュエボ平地では第31師団が、インパール作戦でカレーワなどから退却してくる前方諸兵団(第15師団や第31師団、第33師団など)の収容に1月まで掛かっていたが、ようやくサゲイン方面に転進したばかりだった。
1月14日、戦車を伴う英印軍は、サゲイン方面のオンドウ、パドウに対して攻撃を始めた。1月15日、オンドウの守備隊は後退。しかしオンドウを占領した英印軍はそこで停止し、サゲインには接近せず。
1月22日、戦車、自動貨車100両の英印軍がミンムを攻撃し、1月31日イラワジ河陣地を奪取される。
このためサゲイン陣地から歩兵第58聯隊(高田)と歩兵第124聯隊(福岡)をイラワジ河南岸に転用し、守備に就かせた。
一方イラワジ戦線第15軍の最左翼では、インパール戦から退却する第33師団(弓・仙台)を追って、カレイミョウからミッタ渓谷を南進中の英第4軍団主力は、ガンゴウ地区に接近して、空軍支援のもとガンゴウ守備隊(歩兵第215聯隊(高崎)第3大隊)への猛攻を開始した。
また英33軍団の第20インド師団が攻めるブダリンでは、猛攻を前に1月9日歩兵第213聯隊(水戸)第3大隊の守備隊が撤退。
これを追うように戦車を伴う第20インド師団は、120機もの空軍と砲兵支援のもと、歩兵第213聯隊(水戸)主力の守るマニワ陣地を突破。守備隊はサレイコンに脱出。
<方面軍、イラワジ会戦に戦力を集中する>
1945年(昭和20年)1月下旬には、第31師団、第33師団とも、サゲイン橋頭堡以外の各イラワジ河北岸部隊は、いずれも英印軍に駆逐されていた。
このため、1月16日緬甸(ビルマ)方面軍は、「盤作戦(イラワジ会戦)」にあらゆる戦力を結集することを決めた。
第15軍に可能な限りの兵力を結集することにし、怒西(雲南)方面担当の第33軍、アキャブ、南西沿岸方面担当の第28軍も、出来得る限り第15軍の作戦に協力することとした。
これに従い、1月22日、第33軍はワンチン、ナンカンの現戦線を撤退し、ラシオ北側、ナムツ、モゴックの線に後退。2月10日以降、同地以南に陣地を構築した。
その間、方面軍による部隊の抽出は続いていた。
第49師団の歩兵第168聯隊(京城)主力の吉田部隊は、2月10日マンダレー南西部の要衝で兵站の中心地メイクテーラに。第2師団の歩兵第4聯隊(仙台)基幹の「一刈聯隊」はラシオに後退。
方面軍の怒西(雲南)方面の見通しでは、ラシオ、ナムツ方面に進攻する中国雲南遠征軍は、レド公路の再開がなったことから中国本土に帰還するだろうと考えていた。
また第18師団正面の英第36師団は、シポウ方面、メイミョウ方面に進出して、ラシオ線の遮断を企画するものと考えていた。
このため2月16日、第33軍は指揮下の第18師団(菊・久留米)を、英第36師団と対峙していたモンミットからマンダレー、メイミョウの東のスムサイに、2月25日ごろ終結を完了する予定で転進させた。
残った第56師団で、ラシオ方面を確保し持久する構えだった。
1945年(昭和20年)2月10日、第28軍方面では、第55師団(壮・善福寺)の歩兵第112聯隊(丸亀)主力の「干城兵団」を、イラワジ会戦への協力のため、エナンジョン経由でポパ山にも陣地を構築させた。
ポパ山とは現在のポッパ山(Mt.Popa)。バガン(旧パガン)の南東約50Kmに位置する山で、その麓にあるのが有名なタウン・カラッ(Yaung Kalat)と言う737mの特異な形の岩峰だ。
ミャンマーの土着信仰の「ナッ神信仰」の聖地とされ、その平たい山頂には寺院が建っている。
エナンジョン方面には、独立混成第72旅団(貫徹兵団)、第49師団(狼・京城)から抽出された歩兵第153聯隊(京城)の「勝部隊」、干城兵団、それにインド国民軍の残余の部隊が守備することになった。
その頃、第33師団正面のイラワジ河畔バコック南方のニャング付近で、突如現れた英第4軍団がイラワジ河を渡河しようと突進を始めていた。