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ミャンマーひとり旅(2017年) <47> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑪ イラワジ会戦④ イラワジ河畔の激闘と英印軍の秘められた意図

<13日目ー12
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまはその前にいる。


<イラワジ河畔の激闘>
1945年(昭和20年)1月14日、インパール作戦から退却する第15師団(祭・豊橋/京都)に追尾南進して来たイギリス第14軍(司令官スリム中将)隷下英第33軍団の第19インド師団が、マンダレー北方、タペイキン、シング付近でイラワジ河を渡河し、第15師団を攻撃して来たことで、イラワジ会戦が始まった。
イラワジ河畔に布陣した、日本軍の3個師団の右翼側だった。

2月12日には、同じ英第33軍団の第20インド師団が、今度はミンム西方で川幅1500mのイラワジ河の夜間渡河を開始した。
此処はイラワジ河畔を正面として布陣する3個師団の真ん中に位置し、最重要地域と目されていた場所だった。
2月15日、此処を守る日本陸軍第31師団の兵と左翼の第33師団の兵による夜襲と斬り込み攻撃で、2月21日~26日にかけて最大の激戦となった。
夜が明けると、戦場には700名の日本軍将兵の死体が残されていた。
しかし夜間大きな損害を払ってようやく占領した地点を、昼間になるとたちまち英印軍の火力と戦車に圧倒され奪回された。この戦闘の繰り返しで、日本軍師団の戦力は急速に衰えて行った。
英印軍は次第にイラワジ河南岸に地歩を拡大し、此処を守る第31師団の戦線は崩壊し始めていた。

2月14日未明、3個師団の左翼を受け持つ第33師団正面の更に最左翼、パコック南方のニャング(現ニャウンウー)及びパガン(現バガン)付近に、突如現れた英第4軍団の先頭兵団第7インド師団が、川幅約900mのイラワジ河を渡河しようとしていた。
此処は、第15軍の第33師団と第28軍の独立混成第72旅団との作戦地境(担当する地域の境界線)にあたるため、最も守備が手薄になり易いため選ばれた様だ。
これら日本軍の作戦や部隊配置は、捕虜や敗残将兵から鹵獲した地図などで英印軍はかなり正確に把握していたのだろう。
しかもこれは1945年(昭和20年)2月8日に、エナンジョンで開かれた緬甸(ビルマ)方面軍の作戦会議で、ポパ山、パガンが新たに第28軍の作戦範囲に入ったため、作戦地境に変更された場所だ。

この頃、ポパ山、パガン(現バガン)地区には、インド国民軍第2師団のみで、2月8日のエナンジョン会議でこの作戦地域が新たに第28軍の作戦地域に変更になったが、まだ第28軍の部隊は配置されていなかった。
第7インド師団はニャングでは日本軍守備隊(第33師団)の斬り込みの反撃を受けたが、パガンではインド国民軍が降伏したため英印軍が占領。2月16日ニャングも占領された。

しかし第15軍は、当初この方面を重視せず、第33師団の善戦に期待し、主戦場と思っていた第31師団正面のミンム方面の戦況を注視して、「一号攻勢」を発令。イラワジ河畔からは後方のキャウセに戻っていた第53師団の一部を、第31師団の戦線に増強した。
2月18日、夜を期して、第31師団、第33師団主力、軍砲兵隊、戦車第14旅団等あらん限りの戦力で攻勢に出るが、成功しなかった。

方面軍は、第15軍の反撃能力を強化するため、怒西(雲南)方面の第33軍から第18師団(菊・久留米)を抽出。ミイトソン付近で戦闘中の第18師団を、戦闘を中止してスムサイ付近に後退させ、マンダレー方面への転進を準備させた。

そして2月21日、第7インド師団が築いたニャングの橋頭堡を通って、後続の英第4軍団の第17インド師団と第255戦車旅団が続いてイラワジ河を渡河していった。

パガン近くのニャングを突破した英印軍

英第4軍団が渡河したニャング付近のイラワジ河(現エーヤワディー河)
雨季直前なので水量が少ない。

 

<英第14軍司令官スリム中将の秘められた意図>
1944年12月末、英第14軍司令官のスリム中将は、インパール作戦後の戦線について、腹案を持っていた。
英印軍は、今後イラワジ河南岸及びメイクテーラ周辺の丘陵地帯で、2月末までに広範な会戦を行う。日本軍を殲滅した後、南方に急進して雨季に入る前に南部ビルマの港湾を占領し、海上交通路を再開することを目指していた。
問題は英印軍が、目の前のイラワジ河をどのように渡河するかだった。

そこで先ずマンダレー北方で第33軍団の強力な渡河を行い、日本軍をこの方向に牽制して置き、更にマンダレー下流域サゲイン付近で英第33軍団主力の渡河を行い、日本軍主力の注意を引き付けておく。その間にマンダレー下流域の日本軍の集結地域より更に南で、隠し玉の英第4軍団主力の渡河を行う。
そしてこの突破口から、機甲部隊でメイクテーラ、サジ方面深くに縦深させ、日本軍主力の背後を遮断して会戦場裡で殲滅する作戦だった。
この作戦のためには、メイクテーラ方面に向かう英第4軍団の存在や進路を隠匿する必要があり、既にインドに引き上げている部隊名で無線を交信したりの欺瞞工作を行っていた。

英第14軍司令官スリム中将の作戦腹案


<イラワジ会戦の驚きの転回>
第15軍が、第31師団正面ミンム方面からの英第20インド師団への反撃に専念しているころ、2月22日第33師団より、第15軍司令部に、「戦車30両、自動貨車300両を伴う有力な英印軍、パコック南方に進出せり」との報告が入った。
第15軍は直ちに、軍の予備としていたキャウセにいた第53師団(安・京都)主力(歩兵1個聯隊基幹)約3000名をタウンタに派遣した。

1945年(昭和20年)2月24日、ニャング東方のタウンタやポパ山山上から、戦車、自動貨車合わせて約2000両の大機甲部隊が、メイクテーラ(Meiktila 現メイッティーラ)方面に前進しているのを発見する。
同日、メイクテーラでは、緬甸(ビルマ)方面軍による第15軍(イラワジ会戦)、第28軍(南西沿岸域)、第33軍(怒西地区)による参謀長会議が開かれていた。

同日、約50機の爆撃機が、ミンギャン上空から市街を爆撃。市街の南半分は壊滅した。市内にいた第33師団の輜重部隊(補給、兵站部隊)は、全車両を失った。
日本軍が部隊を集結し終わらない裡に、ニャングで渡河した英印軍の大機甲部隊はミンギャンに近いタウンタ付近を通過し終わっていた。
そして2月26日、英第17インド師団と第255戦車旅団の機甲部隊が、メイクテーラ西飛行場に突入した。

イラワジ戦線とメイクテーラの位置


2月27日、第15軍は方面軍に対し打電。
「戦車、自動貨車計約2000両の敵は、26日メイクテーラに侵入せり。この際一号作戦(一号攻勢)方面(イラワジ河方面)は守勢に転じ、メイクテーラの敵を先ず撃滅するの要あり」。
ところが同日夜半、方面軍から返電。
「メイクテーラの敵は恐るるに足らず。戦場の一波乱に一喜一憂することなく、貴軍は毅然として盤作戦(イラワジ会戦)に邁進せらるべし」
これに驚いた第15軍は、
「メイクテーラの情勢急変が果たして戦場局部の一波乱なりや否やは、事実が証明するであろう。軍はこの現実を一波乱として軽視し得ず」と返電した。

これは如何した手違いか不明だが、方面軍が受け取った電報には、「戦車、自動貨車約200両の敵がメイクテーラに突入」と書かれていたのだ。
方面軍はメイクテーラの敵を、機甲1個旅団、歩兵1個連隊程度と判断し、ペグーに集結中の方面軍直轄部隊の第49師団(狼・京城)主力でこの敵を撃破することとして、第15軍にはイラワジ会戦を依然強行させることにした。

しかし方面軍の判断とは別に、第15軍は、イラワジ河方面は思い切って守勢に転じ、まずメイクテーラの敵を撃滅すべきと、軍の主兵力をこの方面に切り替えることにする。
イラワジ河畔の攻撃は中止し、第31師団、第33師団は敵を拒止する。マンダレー北方戦線は、マダヤで阻止。第53師団はタウンタにて、敵の後続部隊を阻止。
その上で、第15師団、第33師団から歩兵各1個聯隊を抽出し、メイクテーラに向かわせることとした。
第15師団からは、マンダレー北方で戦闘中の羽賀部隊(元第53師団、歩兵第119聯隊(敦賀))。
第33師団からは、パコック方面で戦闘中の作間部隊(歩兵第214聯隊(宇都宮))。

2月28日、この第15軍の報告を聞き、方面軍もようやく方針を転換して、マンダレーの北東で、ラシオ鉄道沿線のスムサイに集結中の第18師団(菊・久留米)を、第33軍から抽出して第15軍指揮下とし、野戦重砲兵部隊(九六式十五糎榴弾砲 砲口径149mm、砲身長3523mm、重量4140Kg)と戦車第14聯隊(中戦車3両、軽戦車4両)をメイクテーラに向かわせることとした。
第18師団と野戦重砲兵部隊の主力は、ピンダレ方面より南面し、第33師団の作間部隊と戦車第14聯隊はタウンタ方面より東南面にて、3月10日頃から攻撃することとした。
また方面軍直轄部隊の第49師団主力で、メイクテーラの敵を南方から攻撃することとした。

第49師団(狼・京城)は、1944年(昭和19年)1月、朝鮮半島の京城(現ソウル)で編成。通称号「狼(ろう)」。主力の歩兵団は、歩兵第106聯隊(京城)、歩兵第153聯隊(京城)、歩兵第168聯隊(京城)。三分の一が朝鮮人将兵だった。
1944年(昭和19年)5月、南方軍の戦闘序列に編入され、ビルマに派遣。シンガポールからサイゴンに向かう途中、輸送船が撃沈され1600名の兵士が失われていた。この後の補給は泰緬鉄道を使うが、ある元兵士は至る所で機関車や貨車が爆撃で横倒しになっているのが見えたと話している。
ビルマ進駐後は、方面軍直轄部隊。

<メイクテーラ会戦へ>
メイクテーラはミャンマーの中央乾燥帯の東にあり、メイクテーラ湖の畔の町だ。
古くから交通の要衝で、ヤンゴンからマンダレーへの南北道路と、バガンからタウンジーへの東西道路の十字路に位置している。
また東飛行場、西飛行場、北飛行場、南飛行場と、メイクテーラの北方20Kmのオマトエ飛行場と5か所の飛行場を抱える戦略上の要衝で、日本軍の兵站を支える町だった。

2月26日、英第17インド師団と第255戦車旅団の機甲部隊が、メイクテーラ西飛行場に突入した当時、メイクテーラには日本軍の飛行場部隊、防空部隊、兵站部隊、入院患者、滞留人員など4,000名前後がいたが、兵器装備も不足し、戦力としては貧弱な陣容だった。

第18師団(菊・久留米)がスムサイからメイミョーに推進中、急を要するため命令により兵力の結集を待つことなくマンダレー南方約60kmのクメに急進。後続部隊は逐次追及させた。
第33師団から抽出された作間部隊(歩兵第214聯隊(宇都宮))も、3月3日ミンギャン街道をメイクテーラ西飛行場に向かい前進中だったが、3月4日、メイクテーラは完全に英印軍に占領され、守備隊は殆ど壊滅。残った兵は辛うじてサジ停車場付近に辿り着いている状態だった。

3月5日、羽賀部隊(元第53師団、歩兵第119聯隊(敦賀))は、メイクテーラ北約20Kmのピンダレに急行。

メイクテーラ湖