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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <49> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑬ イラワジ会戦⑥ メイクテーラ会戦

<13日目ー14
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまはその前にいる。

 

<メイクテーラ会戦 第18師団、第49師団>
1945年(昭和20年)2月26日、メイクテーラ西飛行場を占領した英印軍は、翌27日航空機で北飛行場を猛爆撃し、飛行場の防空機関砲はほぼ全滅した。
さらに2月28日、西飛行場から一斉に攻撃を始め、戦車旅団の主力を以てメイクテーラの北方から東方に迂回し、東、北、西の三方からメイクテーラ市街地を包囲した。
3月2日、メイクテーラに先行していた第49師団(狼・京城)の歩兵第168聯隊を主力とした吉田部隊も、敵機甲部隊の蹂躙を受け壊滅していた。
日本軍守備隊は、3月2日夜、メイクテーラ市街地を脱出。
このためメイクテーラ作戦は、「防衛」戦から「奪回」作戦に切り替えざるを得なくなった。

タウンタからメイクテーラに向かった作間部隊(第33師団歩兵第214聯隊(宇都宮))は、敵の往来が盛んな本道を避け、ジャングルの間を前進して、3月7日未明、西飛行場に達すると、これを占領した。
夜が明け英印軍の反撃を受けるが、これを撃退。

3月6日夜、第18師団はクメから前進し、ピンダレ付近に戦闘指揮所を置き、歩兵第56聯隊(久留米)と羽賀部隊(第53師団歩兵第119聯隊(敦賀))を集結させ、ウンドウィンに歩兵第55聯隊(大村)と歩兵第215聯隊(高崎)を集結。クメ以西に師団司令部を、マライン(ピンダレ西方20Km)に捜索拠点を置いた。
さらに途中敵の戦車と遭遇しながらも、敵の不在だったメイクテーラ北方20Kmのオマトエ飛行場を占領した。

3月9日、作間部隊の西飛行場占領を知り、これを守るため第18師団歩兵第56聯隊(久留米)の先遣隊と、陣地構築のため師団工兵隊をピンダレから西飛行場に続く六哩道標付近に急派。
3月10日朝、部隊は六哩道標付近に到着するが、メイクテーラ方面から来る十数両の戦車の急襲を受けた。
付近一帯は一木一草の遮蔽物も無い平坦な開潤地で、防御の仕様がなく、この時同行するはずの速射砲部隊が遅れており、有効な対抗手段も持たなかったため、数時間の戦闘で大きな損害を負って仕舞った。

しかしこの報告が師団に届く前に、3月11日、第18師団歩兵第56聯隊の主力は、四哩道標付近でミンギャンからメイクテーラに続くミンギャン街道を遮断に向かっていた。
11:00頃、メイクテーラ方面から来た20数両の戦車と敵戦闘機の攻撃で、大損害を受けた。僅か2日間の戦闘で、第18師団の戦力は1/3以下になって仕舞った。

この間、西飛行場を占領していた作間部隊は、メイクテーラ湖西南方に転進して、英印軍の左側背に対する攻撃を準備するよう、更にメイクテーラ北西台上に後退するようとの第18師団よりの命令で、既に転進していた。

メイクテーラに南面から迫る第18師団の戦い


<決勝軍(第33軍)>
メイクテーラ湖周辺の地形は、湖水東岸に沿って南北に走る丘陵の他は一面の平坦な開潤地で、湖は中央の幅30mほどの狭隘部で南北に分かれていて、狭隘部には橋が架かっている。
この湖水東岸の南北に連なる丘陵に立てば、周囲が一望出来た。
作間部隊に進出を命じたこの丘陵の北部付近は、東飛行場を砲撃し得る場所で、メイクテーラ市街地を攻撃するための拠点にもなる場所だった。
東飛行場は、当時英印軍が使っている唯一の飛行場だった。

3月12日、第18師団の歩兵第55聯隊(大村)の山崎部隊は、この湖東台の敵陣地に突入し、占領した。
3月14日になって、英第33軍団の有力な機甲部隊がイラワジ河南岸で、第31師団の戦線を突破して、ミヨサ付近に突進中との情報が飛び込んで来た。
敵の進路は、東に曲がればキャウセに向かうが、そのまま南進すればメイクテーラに向かい、第18師団はその背後をつかれることになる。
このため、師団はメイクテーラへの攻撃を急ぐことにして、以下とした。
東飛行場攻撃は、歩兵第55聯隊(大村)の山崎部隊。
北飛行場攻撃は、歩兵第119聯隊(敦賀)の羽賀部隊。
湖東台守備は、歩兵第214聯隊(宇都宮)の作間部隊。

3月16日払暁の4:00、歩兵第55聯隊(大村)の山崎部隊が東飛行場に突入し、これを占領した。
夜が明けると、20数両の英印軍戦車が迂回して左右両翼に分かれ、十字砲火を浴びせて来た。大隊長はじめ死傷が相次ぎ、やむを得ず後退する。
この間に、北飛行場攻撃を歩兵第119聯隊(敦賀)の羽賀部隊が占領。

一方、首都ラングーンに近いビルマ南部の要衝ペグー(現バゴー)から北進中の方面軍直轄部隊の第49師団(狼・京城)は、3月12日にピヨペ付近から前進中だった。この部隊は他に一部を抽出していて、歩兵第106聯隊(京城)のみの部隊だった。
さらにピヨペに到着する前には、3月6日から3日連続での空爆と、戦車30両からなる英印軍と交戦していた。
メイクテーラに進攻しようとするが、北から攻撃予定の第18師団とは連絡が取れていなかった。
3月13日インドウ、ミヤで激戦。3月14日、カンダンで英印軍の機甲部隊と交戦し、大隊長以下200名に上る大損害を受けたが、3月15日には東飛行場の攻撃の作戦計画を立てていた。
しかし、この時東飛行場は第18師団によっていったん占領し、その後英印軍に奪還されていたが、そのことを第49師団は知らなかった。

このとき第18師団の指揮は第15軍司令部が、第49師団のそれは方面軍司令部がとっていたが、この両師団の戦闘を統括する機関はなく、両師団は別々に攻撃をしていたのだ。
この不都合を知った方面軍は、ラシオ南西約60Kmのシポウに在った第33軍の司令部を抽出して、第18師団と第49師団を統括して、この作戦の指導にあたらせることにした。
第33軍は隷下2つの師団のうち、既に第18師団をメイクテーラに抽出されていたので、手元には第56師団しか残っていなかったのだ。

3月16日、急遽シポウから転進して来た第33軍の司令部は、大和村で方面軍の命令を受けた。
大和村は、メイクテーラから東に向かったシャン高原の入口の村で、カローやタウンギー(現タウンジー)、インレー湖へ行く道の手前だ。

しかしこの頃、メイクテーラ北方のイラワジ戦線は、第31師団の敗退によって英印軍によって広く蹂躙されていて、メイクテーラを攻撃中の第18師団の後背部は英印軍に脅かされていた。
イラワジ戦線は既に破綻に瀕している。たとえメイクテーラを奪還しても、全般の敗勢を挽回することは難しいだろう。しかもそのメイクテーラの奪回も至難の業だと、第33軍の司令部は見ていた。
しかもずっと怒西(雲南)方面を担当して来た第33軍司令部には、この方面に対する予備知識はなく、通信部隊も軍直属部隊もなく、作戦用の地図さえなかった。
しかし方面軍は、この第33軍司令部によって統帥発動以降、この軍(第18師団、第49師団)を「決勝軍」と呼称することにした。

「決勝軍」の戦闘指令所は、大和村西方約60Kmのラインデに設置。ここはもう冷涼なシャン高原を降りた地点なので、たちまち暑気が襲って来た。そして急に敵の動きが身近になって来た。

<東飛行場の攻防>
メイクテーラ奪回のため、作戦地境をトウマ部落北端とメイクテーラの中央鉄橋を通る線として、右(北側)を第18師団が、左(南側)を第49師団と定め、攻撃開始を3月22日とした。

メイクテーラの戦い 第18師団と第49師団

しかし、3月22の夜重大な事実が分かった。
この作戦は、東飛行場を含む「右(北側)」作戦区域を担当する第18師団が、東飛行場を占領中であるという3月16日の情報を基に計画されたが、東飛行場はその後英印軍に奪還されていたため、第18師団は作戦開始の今夜、改めて東飛行場を夜襲する予定だったのだ。
しかしこの時すでに、第49師団は単独で攻撃を始めていた。

これより先、第15軍は第15師団(祭・豊橋/京都)に、マンダレー放棄を命じ、第15師団は3月19日、重囲下の敵中を突破してマンダレーを脱出していた。
またイラワジ河(現エーヤワディー河)南岸の第31師団の戦線は既に崩壊し、逐次キャウセ方面に後退中だった。
このため、第18師団の背後を脅かしていた英印軍の機甲部隊は、第31師団の退路に追尾してキャウセ方面に向かったので、第18師団は背後を襲われる危険からは逃れられていた。

3月22日夜、第18師団は東飛行場に突入して、これを占領した。守備の英印軍部隊は、メイクテーラ市街地方向に退却した。
唯一英印軍が使用中だった東飛行場を日本軍が占領したことで、英印軍は補給を断たれ、孤立無援となり退却するかと思われたが、全くその気配はなかった。
メイクテーラは3月23日以降、日に延べ100機もの輸送機で物資投下を行っていたのだ。
しかもこの頃、イラワジ戦線は全面的に崩壊し、英印軍はメイクテーラの直ぐ近くまで迫って来ていたのだ。

左(南側)の作戦地域担当の第49師団(歩兵第106聯隊(京城))は、3月22日、英印軍のメイクテーラ湖東陣地に夜襲を決行したが、敵の頑強な抵抗を受け大きな損害を出してカンギーに後退した。

<メイクテーラ会戦の放棄>
3月下旬、メイクテーラの奪回はなかなか進まず、第18師団は東飛行場付近、第49師団は市街地南方で激しい攻防戦が続いていた。
緬甸(ビルマ)方面軍は、たとえ混戦状態のままでも、何とか現在の戦線を維持したまま雨季に持ち込めたらと考えていた。
しかし雨季は5月中旬ないし下旬からで、今は未だ3月だ。淡い期待は潰え去ろうとしていた。しかも決定的な情勢が、第15軍正面で起きていた。

3月19日、マンダレーで敵の重囲下にあった第15師団は、マンダレーを放棄して脱出。
これに伴い、マンダレー付近の英印軍はメイミョーを突破して、西進中の部隊と合流して、目下ミンゲ川南岸に向かい大挙して南進していた。
第31師団の退却に追尾、急進中の英印軍は、既にキャウセ、ウンドウィン方面に近迫して、キャウセは英印軍の砲撃に曝されていた。
イラワジ戦線後背部は既に英印軍に広く開放され、メイクテーラとイラワジ戦線の両英印軍は、既に合流したものと思われた。

3月28日夜、緬甸(ビルマ)方面軍の田中新一参謀長は、サジにある「決勝軍」(第33軍)戦闘指揮所で、第33軍の辻参謀から問われた。
敵戦車1両を破壊するのに、火砲1門と兵員50名の犠牲を必要とする。メイクテーラに残存する敵戦車100両を破壊するのに、更に80門の火砲と兵員5000名の損害を覚悟しなければならない。今やわが火砲と敵戦車とは刺し違えの状態にある。
それ程にしても、この際なおメイクテーラ奪回を強行せねばならぬかどうかと問うた。
これに対し、方面軍の田中参謀長もようやく劣勢を認め、メイクテーラの奪回を断念。第15軍の退却を収容することにした。

3月28日、方面軍が約1ケ月に渡り執拗に追及して来たメイクテーラ奪回は放棄された。
第18師団のメイクテーラ作戦の損害(3/18時点)。
戦果は、戦車炎上20両、かく挫32両。
損害は、戦死580名、戦傷426名、行方不明563名。
3月20日時点で残った戦力は、歩兵第55聯隊(大村)は、900名。歩兵第56聯隊(久留米)は、400名。元第53師団歩兵第119聯隊(敦賀)は、500名。作間部隊(第33師団)は、300名。

第49師団(3/10~4/13の時点)の損害は、戦死4150名、戦傷死10名、戦傷753名。
3月31日時点で残った戦力は、歩兵第106聯隊(京城)は957名、歩兵第168聯隊(京城)は553名だった。