<13日目ー15>
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまはその前にいる。
<イラワジ戦線・メイクテーラ戦線の崩壊>
メイクテーラでの戦闘が、英印軍と対峙したまま消耗戦を繰り返している最中、方面軍は第33軍司令部を抽出して「決勝軍」と呼称し、この作戦を主導させようとした。
メイクテーラ会戦の前提条件は、メイクテーラ会戦終結まで、イラワジ河畔の第15軍が最小限イラワジ戦線を持ち堪えていることだった。
しかし防御線を敷いていたイラワジ河河畔では、第15軍の将兵が抗戦するも、余りに広い戦域を寡兵では持ち堪えきれず、至る所で英印軍の突破を許し、戦線が全面崩壊していた。
第33師団はミンギャン付近と、ミンム南方の英印軍が渡河した地点で、敵と対峙していた。しかし第33師団が敢闘する間に、右隣接の第31師団は後退中で、このため第33師団は右側背を敵にさらす様になり、戦線を整理せざるを得なくなって来た。
3月6日、イラワジ河南岸の要衝ミンギャンでの戦闘は最激戦となり、3月20日ごろにはミンギャンの第33師団、タウンタの第53師団ともその退路を完全に断たれ、敵中に孤立してしまった。
3月24日、ミンギャン陣地は敵に突破された。
第15軍司令部は、ミンギャンの戦略的重要性を力説し、「この上とも強力な統帥を望む」との督電を第33師団に送った。
しかし第33師団長は、「師団から6個大隊も抽出しておきながら、どうしてそんなことが言えるのか」と憤慨した。
この後3月27日、第33師団は現戦線を徹し、メイクテーラ北東約30Kmのマンダレー鉄道沿線のウンドウィン方面に転進すべしの命令を受ける。
第53師団もタウンタで敵に包囲され、3月28日、辛くも脱出している。その後、第33軍より、以後第53師団は第33軍の指揮下に入り、メイクテーラの南南東約40Kmにあるヤナウンへの転進を命じられた。
イラワジ川南岸に於ける第15軍正面の戦線は、全面崩壊の様相を呈し、その主力はマンダレー南方シャン高原西麓方面に一斉に敗走し始めた。
第33軍のメイクテーラ奪回作戦は、第18師団(菊・久留米)、第49師団(狼・京城)、両師団の奮戦も空しく失敗に終わった。
イラワジ、メイクテーラの両会戦に敗れた緬甸(ビルマ)方面軍は、やむなく次期戦場をトング―付近に選び、この地で急迫する英印軍を阻止し、極力5月中旬か下旬に始まる雨季に持ち込もうとしていた。
このため方面軍は、第33軍(第18師団、第49師団、第53師団)がマンダレー街道沿いに南下する英印軍を阻止し、この間に第15軍(第15師団、第31師団、第33師団)は、シャン高原経由でトング―に転進して、同地を占領する。
第28軍(第54師団、第55師団)は、戦線を収縮して、プローム付近を確保。そして出来得る限りの兵力を、トング―方面に増派するよう命令した。
しかし後退してマンダレー街道のトング―を守ることとなった第15軍も、トング―北方のピンマナーを守ることとなった第33軍も、ほぼ兵力は壊滅状態になっていた。
さらに南下する英印軍の突進速度は予想以上に迅速で、第33軍の度重なる抵抗も突破してトング―に迫って、4月22日にはトング―を突破。
引き続き首都ラングーン(現ヤンゴン)を目指して南下していた。
<南方資源還送船団輸送の終わり>
ビルマで日本軍が行った最後の大会戦「イラワジ会戦」を戦っている最中の、1945年(昭和20年)2月18日~3月2日に米軍が硫黄島を占領。次いで、3月3日フィリピンのマニラ占領。
そして米軍による本土空襲、3月10東京大空襲、3月12日名古屋大空襲、3月14日大阪大空襲、3月16日神戸空襲、3月19日呉港空襲、3月26日から6月23日まで続く沖縄戦が始まっていた。
1945年(昭和20年)3月。
南方資源を日本に運ぶための南向け船団の、日本本土(内地)からの発航は停止された。
さらに大本営は、南方にある船舶を全面的に利用して、これに可能な限りの艦隊護衛を付けた船団を編成して、最後の南方資源還送船団として日本に向かわせた。
しかしその大部分は、途中米軍の攻撃を受けて沈没。
3月下旬にはこれら北向船団は壊滅した。日本の南方資源還送船団輸送は終わりを迎えていた。
対英米戦開戦前の1941年(昭和16年)10月29日にまとめられた、「南方作戦」の目的は、国力造成上の観点から、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなどの重要資源地帯を攻略確保して、米英に依存することなく、自立できる経済圏の確立を目指すというものだった。
南方の資源を確保して、それを日本に運ぶことが目的とされた。
しかし、今や資源を日本に運ぶすべは失われて仕舞った。
この後の南方資源への対応は、南方軍自体の自給自戦のための活用と、連合国軍の利用の妨害を目的として、資源要域の防衛にあたることになった。