歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <44> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑧ 1944年(昭和19年)新たな作戦「イラワジ会戦」①へ

<13日目ー9
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまそこを訪れている。

<1944年(昭和19年)7月サイパン島陥落後の南方作戦>
1944年(昭和19年)7月9日、太平洋戦域でマリアナ諸島のサイパン島が、米軍によって陥落した。これによって大本営が中部太平洋に想定した「絶対国防圏」がもろくも破綻し、サイパン島やテニアン島の飛行場から米軍のB-29爆撃機による本土爆撃が始まっていた。
これにより、本土では東条英機内閣が総辞職し、同じ陸軍軍人の小磯国昭内閣が成立していた。

7月21日、大本営(戦時中の設置された日本陸海軍の最高統帥機関)は、マリアナ失陥によって、千島列島、本土、南西諸島、台湾、フィリピンに渡る東西第一線防衛を強化する「捷号(しょうごう)作戦」計画を立て、7月24日、南方軍に8月末までにフィリピン方面に於ける決戦「捷一号作戦」の準備を指示した。
「捷号」の「捷」とは、決戦の時をとらえて戦いに勝つとの意味だったらしい。
因みに、「捷二号作戦」の対象は台湾・南西諸島、「捷三号作戦」は本土の本州、四国、九州、「捷四号作戦」は北海道・千島列島・樺太が対象だった。

この大本営からの命令を受けた南方軍は、総力を挙げてフィリピンに於ける決戦準備に取り掛かっていた。そのため東南アジアのその他の地域は、次第に重要視されなくなっていた。
対英米戦開戦以来シンガポールにあった南方軍総司令部も、1944年6月にマニラに移っていた。

1944年(昭和19年)7月~8月頃の南方戦線


<インパール作戦敗北後の、緬甸(ビルマ)方面軍の認識と新たな作戦計画>

1944年(昭和19年)7月3日のインパール作戦(「ウ」号作戦)中止命令以来、インパール戦域から退却する部隊の収容が続いている最中の9月下旬、緬甸(ビルマ)方面軍の示した現状認識と新たな作戦概要は以下の様だった。

連合国軍(英米印中軍)の反攻は①マンダレー方面(英印軍、米中軍新編第1軍、第6軍)、②怒西方面(中国雲南遠征軍)、③アキャブ方面(英印軍)、④ベンガル湾沿いへの海上攻勢(英印軍)が考えられる。
これに対する対応は以下とした。

①マンダレー付近及び同地以南、イラワジ(現エーヤワディー河)河畔正面に来攻する敵(英印軍、米中軍)を阻止。
これを「盤作戦」として、マンダレー、メイクテーラ、キャクパダン、サゲイン、パコック付近、イラワジ河左岸地区にて敵を阻止する。
参加兵力は、インパール作戦を戦っていま退却途中にある第15軍。すなわち第15師団(祭・豊橋/京都)、第31師団(烈・バンコク)、第33師団(弓・仙台)。
さらに予備として方面軍直轄の第53師団(安・京都)、第2師団(勇・仙台)、第49師団(狼・京城)を運用する。
対する英印軍は、凡そ8~9個師団、戦車など機械化旅団2個、米中軍新編第1軍、第6軍の3個師団を想定。

②怒西方面は、印支地上連絡(インドと中国を結ぶレド公路)遮断と妨害。
これを「断作戦」として、バーモ、ナンカン方面の敵(米中軍新編第1軍、第6軍と中国雲南遠征軍)を撃破。止むを得ざるもラシオ、モンミット付近で持久(耐えて長く持ち堪える)する。
参加兵力は第33軍。第18師団(菊・久留米)と第56師団(龍・久留米)。
予備として第2師団(勇・仙台)を方面軍直轄として抽出し、トング―付近に位置させる。
中国新編第1軍、6軍は、5個師団、中国雲南遠征軍は、16個師団。合計21個師団を想定。

③アキャブ方面、インド洋(ベンガル湾)沿岸正面に来攻する敵(英印軍)を阻止。
これを「完作戦」として、タンガップ付近、アラカン山系よりイラワジ河三角地帯、ラングーン地区、エナンジョン地区(油田地帯)の要域を確保。
参加兵力は、第28軍の第54師団(兵・姫路)、第55師団(壮・善通寺)、独立混成第2旅団。
英印軍は、5~6個師団、戦車など機械化旅団1個、空挺1個旅団を想定。

④方面軍直轄の第2師団(勇・仙台)はトング―付近、第49師団(狼・京城)はペグー付近に位置し、イラワジ河作戦に対し準備する。

⑤方面軍直轄の第53師団(安・京都)はピヨペ、ピンマナに位置する。

インパール作戦後の緬甸(ビルマ)方面軍の部隊配置