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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <16> 対英米蘭戦開戦、マレー作戦とハワイ空襲

<4日目―9

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。

<「E作戦」マレー作戦:シンガポール攻略>

第二次大戦(対英米戦)において日本軍の最初の攻撃は、実は「真珠湾攻撃」ではなく「南方作戦」(「あ」号作戦)のうち、「E作戦」(マレー作戦)からだった。

「E作戦」:マレー作戦(馬来作戦)
1.目的は、英領マレー方面の敵を撃破して、シンガポールを攻略し、東亜に於ける英国の根拠を覆滅する。

2.担当は、第25軍(4個師団を基幹)(近衛第2師団(宮・東京)、第5師団(鯉、広島)、第18師団(菊・久留米)、第26師団(龍・久留米)
第5師団(鯉、広島)は、「M作戦」フィリピン作戦に参加する第48師団(海・海南島)と共に、揚陸能力を備えた貴重な機械化師団だった。

3.地理は、上陸地点のタイ領内シンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっている。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば、日本軍の進撃も容易ではないと考えられていた。

4.英軍の状況は、シンガポール(Singapore)は、英軍によって防御設備の強化が進められ、海に面した南側には重砲群とトーチカが構築され、さらに多数の戦闘機を配して「難攻不落」の要塞化されていた。さらに兵力増強を行っており、開戦時、イギリス兵19,600人、インド兵37,000人の他、オーストラリアやカナダなど英連邦制内の自治領の兵合わせて、88,600人にのぼった。

5.おおよその戦闘経緯は、以下。
1941年12月8日,午前1:35、第18師団隷下の侘美支隊5,500名が英領マレー半島のコタバル(Kota Bharu)に敵前上陸。800名以上の死傷者を出す激戦の後、9日にコタバル占領。同時に第25軍先遣隊はタイ南部のパタニ(Patani)、シンゴラ(Singola)、ソンクラに上陸し、マレー国境を突破。

同時に、第15軍第55師団(楯・善通寺)隷下の宇野支隊は、南部タイ各地に上陸して、付近の飛行場を占領。その後マレー半島を横断して西岸の英領ビルマのビクトリアポイント(Victoria Point 現コータウン Kawthaune)に達し、飛行場を占領してマレー作戦を援護。これが、開戦から初めてのビルマ戦線での戦闘であった、


1942年(昭和17年)1月11日クアラルンプール占領。
1942年1月31日、シンガポール対岸の町ジョホールバル(Johor Bahru)占領。12月8日の上陸以来、55日間でマレー半島を突破していた。
マレー作戦には陸軍第3飛行団(隷下に飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)など)の航空支援が大きかった様だ。

1942年2月7日夜から、ジョホール水道(Straits of Johor)を越えてシンガポール攻略戦開始。
2月15日、22:00停戦。シンガポール占領。英軍側捕虜約8万名。

マレー半島の戦況図

マレー作戦戦況図(靖国神社遊就館図録より)

<マレー沖海戦>
1941年12月8日、英東洋艦隊戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」及び駆逐艦4隻が、シンゴラ付近で日本軍上陸部隊を奇襲しようとシンガポールのセレター軍港を出撃。

9日、15:15、日本海軍の伊65潜水艦が艦影を発見。
12月10日、南部仏印のサイゴン(現ホーチミン)より飛び立った海軍第一航空部隊の九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機の水平爆撃と雷撃により、両艦沈没。

戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」は、1941年8月、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が会談し、大西洋憲章が結ばれた艦艇だった。

 

<ハワイ空襲。真珠湾攻撃(Attack on Pearl harbor)>

1941年12月8日,陸軍の英領マレー半島のコタバル(Kota Bharu)上陸にやや遅れて、日本海軍聯合艦隊、空母機動部隊によるハワイ空襲が敢行されている。

1898年7月、アメリカはハワイを併合。
1940年5月、アメリカは、日本の南方政策を牽制するため、当時西海岸のサンディエゴにあった太平洋艦隊主力を、ハワイ・オアフ島の真珠湾に駐留させていた。

旗艦赤城はじめ加賀、飛竜、蒼龍、翔鶴、瑞鶴を基幹とする日本海軍空母機動部隊は、大分県の佐伯湾から11月18日に千島列島の択捉島単冠湾に集結後、ハワイへ向け出撃。

1941年12月8日未明(ハワイ時間12/7)、日本海軍がアメリカ合衆国ハワイ・オアフ島真珠湾にあったアメリカ太平洋艦隊と基地を空襲。
12月8日午前1:30、空母各艦より第一次攻撃隊(艦上戦闘機43機、艦上爆撃機51機、艦上攻撃機(雷撃)89機、計183機)が発進。
午前2:45、第二次攻撃隊(艦戦36機、艦爆80機、艦攻54機、計170機)が発進。
米戦艦8隻が沈没または損傷を受け、太平洋艦隊の戦闘能力を一時的に喪失させた。