<4日目―11>
2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。
モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。
<日本軍の英領ビルマへの進攻>
1941年(昭和16年)10月29日までに陸海軍中央統帥部で作成された、対英米蘭戦(日本側の呼称「大東亜戦争」)開戦時に於ける、日本軍の進攻作戦「南方作戦」でも判るが、開戦当初にはビルマ作戦は含まれていない。
ビルマ進攻の最初は「援蒋ルート」の遮断が目的だった様だ。
しかし「南方作戦」が意外にも短期で完了したので、戦況を見ながらその後のビルマ進攻作戦が決められていったのではないかと推測されている。
第二次大戦において、日本軍の最初の英領ビルマ(Burma現ミャンマーMyanmar)への進攻は、米英に宣戦布告した1941年12月8日から僅かしか経たない1941年12月15日に始まった。
当時ミャンマーの隣国タイは、殆どが英米の植民地であった東南アジアの中で唯一の独立国だったが、日本が米英に宣戦布告した1941年(昭和16年)12月8日時点で、日本軍のタイ領内通過を認める協定を結んでいた。
開戦後の12月21日には「日泰攻守同盟」を調印して、タイの防衛のため日本陸軍第15軍によるタイ進駐が行われ、近衛師団がバンコク防衛の任に就いていた。
日本軍のビルマ進攻の最初は、そのタイに進駐していた陸軍第15軍隷下の第55師団(通称号「楯」、編成地「善通寺」)の裡、歩兵第143聯隊の一部である宇野支隊による作戦だった。
南部タイ各地に上陸して、付近の飛行場を占領し、更にマレー半島を横断して、12月14日アンダマン海に臨む西岸のビルマ最南端で、タイ領と接するマレー半島のビクトリアポイント(Victoria Point現コータウンKawthaung)に達し飛行場を占領した。
これはマレー半島を南下してシンガポール攻略を目指す、第25軍による「E作戦 マレー作戦」の援護射撃だったが、これが開戦から初めてのビルマ戦線での戦闘となった。
日本軍がビルマに進攻した時、ビルマ(Burma 現ミャンマー)防衛の英印軍は約3万人と言われ、開戦と同時にモールメン(Moulmen 現モウラミャイン)を含むテナセリウム(現タニンダーリ地方域)を守るため第17インド師団が編成され、日本軍のラングーン(Rangoon 現ヤンゴンYangon)進撃を阻もうとしていた。また中国も、総兵力10万人の大軍を雲南方面から中部ビルマに派遣しつつあった。
<援蒋「ビルマルート」の遮断>
1942年(昭和17年)1月4日には歩兵第112聯隊の沖支隊が、タイからビルマ南東部のタボイ(現ダウェイDawei)へ、その後陸軍の第33師団(弓・仙台)、第55師団を基幹とする第15軍主力が1月20日にタイのメーソートから国境を越える。
タイとビルマの国境は、2000m級の山が100Kmに渡って連なっている険しい山地だったが、第15軍主力部隊は敢えて山脈を越える作戦をとった。
ビルマ独立義勇軍(BIA)も日本軍に同行し、道案内や民衆工作に協力し、志願兵を募って軍事訓練を施しながら共に前進した。BIAの参謀だったアウン・サンはAung San)は、この時26歳だった。
これらの協力があって、山越えの進出が可能になった。
1月30日モールメンを占領。その後ラングーンへ進撃する。
その後の補給物資は、タイ内陸にあるピサヌロークやラーヘン、メーソートからビルマのモールメン迄、およそ東京から大阪に匹敵する距離を輸送しなければならなかったらしい。
1942年3月8日、日本陸軍第33師団がラングーンを占領すると、マレー作戦が早期に完了したため、シンガポール攻略の主力だった陸軍第25軍隷下の第18師団(菊・久留米)と第56師団(龍・久留米)が第15軍の戦闘序列に編入され、ラングーン港に上陸。
またラングーンに陸軍第3飛行集団が進出して、ビルマ上空を制圧した。
ビルマ独立義勇軍 BIAは、4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問になる。この後BIAは、27,000名迄増加していた。
ラングーンを占領して以後の物資や兵員の輸送は、海上輸送で直接ラングーン港に入ったり、泰麺鉄道完成後は、鉄道でモールメンに入って、ラングーンからメイクテーラ(現メッティーラ(Meiktila)やマンダレー(Mandalay)方面へ展開している。
4月17日、第33師団が中部油田地帯のエナンジョン占領。
5月1日には、第15軍隷下になった第18師団が中部の要衝マンダレーを占領。
一方第56師団は、マンダレーでの決戦を想定して、英印軍、中国遠征軍の退路を断つため、中国国境に近いシャン高原の町ラシオ(Lashio)まで進出したため、英印軍はチンドウィン河を渡ってインドのインパール(Imphal)やアッサムまで退却し、10万の中国軍は、半分はフーコン渓谷を通ってインド領に逃げ、半分は恵通橋を破壊して自国領内に退いた。
1942年(昭和18年)5月18日、陸軍第15軍は、全ビルマ制圧完了を南方軍に報告している。
ビルマ占領により、当初の目的であった援蒋「ビルマルート」の遮断に成功した。
一方これによって、連合国軍に残った最後の「援蒋ルート」は、英領インドのアッサム州チンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈の東端を越えて中国の昆明に到る「ハンプ越え」(The Hunp)と呼ばれた空輸ルートのみになった
この輸送は空路で800Kmを補給なしで飛ばなければならず、危険性が高く、搭乗員は普通輸送機では付けないパラシュートを装備して搭乗したと言われている。輸送量も限られていたが、それでも援助は続けることが出来た様だ。