歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <34> まだ12日目 旧王宮、ピックアップトラックの愉快な会話

<12日目ー2
2017年 6月2日 金曜日 マンダレー 晴れ 暑い36度。
朝からバイタクで、マンダレーヒルに登った。

<バイタクでマンダレーの旧王宮に向かう>
マンダレーヒルから降りて来た。再びバイクの後席に跨って、来た道を戻って旧王宮に向かう。
一辺3kmの堀に囲まれた旧王宮は、いまは東の入口からしか入れない。
此処はミャンマー最後の王朝コンバウン朝の王宮跡で、第二次大戦で王宮の建物は焼失。
その後はミャンマー国軍の駐屯地と成っているが、1990年代末に、その敷地の一部に当時の王宮の建物が再建されたものらしい。

堀を渡った地点でバイクを降り、ドライバーと別れて門の入口にあるセーフティー・チェックポイントに行く。
まずマンダレー地域の入域料10,000ks(約800円)を払う。これは5日間有効で、他の遺跡やパヤーに入る時提示するものらしい。
その横に軍服姿の人がいて、パスポートを見せ、置かれていた用紙に名前等を記載する。さらにパスポートを預け、代わりに首から吊るすIDカードの様なものを貰う。
戻って来た時に、またパスポートと交換する仕組みの様だ。

現在王宮跡は、ミャンマー国軍の北西方面部隊(Na Ma Hka)の司令部や、駐屯地になっている。
門の前には、しっかり見るのが憚られるので型式は分からないが、小銃を持った兵士が立っている。此処は軍の施設なんだなぁと実感する。

マンダレー地域の入域料10,000ks

門を入って、そこから王宮の建物迄の道のりが、長い。
何の躊躇もなく歩き始めたのだが、脇に「residence area」と書かれた標識のある辺りから、道を通るバイタクから声がかかる。1000ksだと。
いまバイタクを降りたばかりで、またバイタクは無いだろうと思って断るが、周囲に歩いている人はいない。
まわりは軍の施設そのもので、軍服姿の人が至る所で働いたり、のんびり寛いでいる。
道の端に木陰はあるが、何しろ暑い。
息を弾ませて歩くその横を、ローカルの人を乗せたピックアップが通り過ぎる。
余りの道の長さと暑さに、此処は歩く場所じゃないと思っているうち、漸く建物群の入口に着いた。20~30分位歩いただろうか。

建物群の入口には小屋があって、ピックアップから降りた人達が入場券?を買うので混雑している。
私はもう10,000ksもする入場券を首から下げていると思い、人混みの横を抜けて中に入った。誰も私に「入場券は?」と言って誰何する人はいなかった。

<マンダレーの王宮は・・・>
中は広い敷地にマンダレー様式?の建物が並んでいる。然しどの建物も外観だけで内装は無く、まるで映画のセットか巨大なユネスコ村だ。
ユネスコ村とは、戦後の1951年日本がユネスコ(UNESCO)に60番目に登録されたことを記念して、西武鉄道が東京の郊外に作った遊園地で、小学校の遠足などに連れていかれた記憶があった。
そこは敷地内にオランダの風車など、世界各国の家が展示されていた。しかしどの家もあくまで外観だけで、中を除くと何もない建物で、子供心にがっかりした思い出がある。

マンダレーの王宮は、1885年の第三次英緬戦争で敗れたコンバウン朝の主が居なくなった後、イギリス軍の「ダファリン(Dufferin)要塞」となり、イギリスとインドの軍隊の宿営地として使用されていた。
1942年5月、日本軍がマンダレーを占領すると、今度は日本軍の兵站基地として使用されていた。
1945年になると、イギリス軍の激しい爆撃で王宮は破壊され、消失した。
現在の内装の無い、映画のオープンセットの様な複製の建物群は、1980年代に軍事政権のネ・ウィンが再建させたものらしい。

再建された王宮の建築群

コンバウン朝の大砲

中に管理する人は、入口の発券所以外1人も居ない。ガランとした建物の間を彷徨っている様で、確かにどの旅行記にも「此処は良かった」と言うコメントは少ない。
然しWatch towerと言う周囲に螺旋階段が付いた見張塔があり、其処に登ると王宮全体が見渡せる。
狭い階段の至る所で写真を撮りあっている。私もロンジー姿の若い女性の二人連れに写真を撮ってやり、自分の写真も撮ってくれる様頼むと、何故か1人の女性が一緒に写って居た。

螺旋階段の付いたWatch tower


<ピックアップトラックの荷台で愉快な会話>
旧王宮の建築群の入口まで戻って来た。
帰りはお堀の門までもう歩かないぞと、バイタクを探すが、こういう時になっていない。
この暑さと、マンダレーヒルからのバイタクと、王宮の建物までの歩きで流石に疲れていたので、木陰で出発を待つピックアップの運転手らしき人に、「to GATE、OK?」 と言うと頷いた。

直ぐに出そうなピックアップに乗り込もうとすると、荷台は女性でいっぱいだ。躊躇していると、別の車に乗れと指を差された。そのピックアップは荷台に男性が2人だけだった。
ここは荷台に座席が設けられておらず、荷台の床にそのまま座るだけだ。乗り込んで空いていた一番前に座るが、私は身体が硬く、脚を曲げるのもやっとだ。

これじゃ出るまで大分時間が掛かるなぁと思っていると、女性の乗っていたピックアップと一緒に出る様で、ドライバーが急に周囲に声を掛け、年配の男性と若者が2人乗って来て一杯になった。
走り始めると、ドスンドスンと揺れる荷台の上で、ロンジー姿で、キンマで口の真っ赤な若者の1人が私に興味があるらしく、何処から来た?ミャンマー語知っているかなど全くのミャンマー語(ビルマ語)で話し掛けてくる。
わからない筈が、不思議に分かった様な気になって、「JAPANからだ」、知ってるのは「ミンガラーバー(Mingalaba)だけだよ」などと言うと、皆んなで大喜びだ。
「ミンガラーバーを日本語ではなんて言うんだ」、「コンニチワだ」、などと走る車の騒音に負けないよう大声で話しているうちお堀のゲートに着いた。
「I get off here ‼︎」と言う間に車は停まり、私が幾らか聞くと、ピックアップの助手が200ksと言って私が出そうとすると、荷台の皆んなが手を大きく横に振って「要らない、要らない」と言ってくれる。
私はよっこいしょと降りながら、「thank you ‼︎」と繰り返し、発車したピックアップを見送った。

再びバイタクに乗ると、ドライバーから「Are you hungry?」と聞かれた。
もう12:00を過ぎている。私もお腹が空いて来ているし、このまま次のマハムニ・パヤー(Maha Muni Paya)に行くと13:00過ぎると思った。しかしドライバーに案内して貰うと、ローカルな食堂になってしまう。モウラミャインの二の舞に成り兼ねない。
先にマハムニ・パヤーに行って、ドライバーと別れてから西洋料理などの店を探そうと考え、ドライバーには「Yet」と言った。
しかし本当はバイタクのドライバーにも昼食を奢らなきゃいけなかったと思って、申し訳ない気持ちになった。