歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <37> まだ13日目 マンダレー郊外 ザガインヒルの慰霊碑の前で①

<13日目ー2
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレーを出て、郊外の古都ザガインやアマラプラを巡っている。

<ザガイン・ヒル  Sagain Hill>
アマラプラからエーヤワディー河を、新しいインワ鉄橋(Ava Bridge) を渡ってザガイン(Sagain)に入る。
インワ(アヴァ)鉄橋は1934年にイギリスが建設した、中央に鉄道線路その両側に一車線ずつ道路が走る共用橋だが、その下流に新しい鉄橋が出来たのだ。旧い方の橋は、帰りに通るらしい。
マンダレーからの鉄道は、この橋でエーヤワディー河を渡り、シュエボ(Shwebo)を経てミャンマー国鉄の北の終着駅ミッチーナ(旧ミートキーナ Myitkyina)まで続いている。
橋の上からエーヤワディー河を隔てて、緑の木立の中に金の仏塔が建ち並ぶザガイン・ヒルの小高い丘が望める。

エーヤワディー河に架けられたインワ鉄橋

エーヤワディー河の向こうにザガインヒル

河を渡って、車で丘を登って行くと、ザガインヒル(Sagain Hill)の頂上直下だ。
ここから車で待つドライバーと別れて、ひとりで入って行く。

入口でCamera Fee 300Ks(約24円)を払う。
此処からはサンウーポンニャーシン・パヤー(Soon U Ponya shin Paya)の境内なので、裸足になって、両側に小さな露店が出ている屋根付きの粗いコンクリートの参道をひたすら上る。
途中、暗がりで寝ていた大きな野良犬がのっそりと立ち上がったのでびっくりするが、犬の方は吠えもしない。

登り着くとテラスにでた。
お堂の中に入ると、50体もの金色の袈裟を纏った仏様が、円を描くように並んで祀られている。
ミャンマー人の男女が仏様を見ながら何か話し、その後を堂守の女性が付いて歩いている。
私も合掌して拝んだ後、堂守にお経の書かれたお札を貰った。2,000Ks(約160円)。

再び外のテラスに出てみる。其処からの眺めは素晴らしい。
近くなったエーヤワディー河の雄大な流れと、緑の丘の中に点在する黄金のパゴダが一望できる。遠くに、渡ってきた新旧2本のインワ(アヴァ)鉄橋が、模型の橋のように二本並んで見える。
シンガポールから来たと言う若いカップルと出会い、片言の英語で少しおしゃべりしながらお互いに写真を撮りあう。
こういうところで日本の若い旅行者に会うことは、もう殆どない。

サンウーポンニャーシン・パヤーのお堂内に並ぶ仏像

サンウーポンニャーシン・パヤーのテラス

ザガイン・ヒルから望むエーヤワディー河とインワ鉄橋

<日本人戦没者の慰霊碑>
其処から少し登った先に、日本人戦没者慰霊のパゴダが建っている。その傍には、エーヤワディー河とそれに続く広大なミャンマーの平原が見渡せる丘に、「壮」、「烈」、「弓」、「菊」と言った旧日本陸軍各師団の「兵団符号」(通称号)が記された慰霊碑が立っている。
「兵団符号」(通称号)とは、戦時に於いて、防諜のため部隊の固有の編成番号ではなく文字符で表すことにしたもので、例えば第55師団は「壮(楯)兵団」、第31師団は「烈兵団」などと呼ばれていた。
第2次大戦ではこのミャンマーの地で、ビルマ方面の作戦に従軍した内の6割以上、18万人もの日本人が戦没している。それを弔うパゴダが建てられていた。

日本人戦没者慰霊のパゴダ

楯兵団(第55師団)、鯨兵団(第40師団)、烈兵団(第31師団)、祭兵団(第15師団)、弓兵団(第33師団)の慰霊碑

菊兵団(第18師団)慰霊碑


<1942年(昭和17年)日本軍のビルマ占領と軍政の開始>
1942年(昭和17年)5月18日、日本陸軍第15軍は、全ビルマ制圧完了を南方(総)軍に報告している。

1942年(昭和17年)1月20日、陸軍の第33師団(弓・仙台)、第55師団(楯・善通寺)を基幹とする第15軍主力がタイのメーソートから国境を越えて以来、ビルマ各地へ進攻を進めていた間、第15軍はバンコクで参謀部内に行政班を組織し、ビルマ軍政施行の準備に着手していた。
1942年(昭和17年)3月15日、英領ビルマの首都であったラングーン(現ヤンゴン)を占領後、軍政部を「軍政監部」に改称し組織の拡大を行い、7月25日ビルマ全土に軍政を施行した。

軍政監部の組織は6部編成で、総務部、財務部、産業部、交通部、政務部、文教部。
要員は、軍人46名、文官175名体制だった。

同時に、1月日本の第15軍と共にタイ国境を越えて来た「ビルマ独立義勇軍 BIA 」は、「ビルマ防衛軍 BDA」(Burma Defence Army)に改編され、アウン・サンは軍司令官になった。
 BDAの位置づけは日本軍の補助部隊で、第15軍に隷属。同時に「ビルマ独立義勇軍 BIA 」を組織して来た南機関は解散となった。