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ミャンマーひとり旅(2017年) <41> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑤ インパール作戦の瓦解と総退却

<13日目ー6
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。

<インパール作戦の瓦解と総退却>
1944年(昭和19年)3月にインパール作戦が始まって、2カ月以上が経った。当初インパールを3週間で占領するとしていた、第15軍司令部の目論見を大きく超えていた。
前線への補給は途絶え、各戦線に渡って英印軍の陸と空からの攻撃に前進は阻まれていた。

インパールの戦場では、第33師団長は第15軍司令部に作戦中止を意見具申する。
当時第15軍の司令部は、マンダレー地方域のメイミョー(Maymyo 現ピンウールウィン Pyin Oo Lwin)にあった。
此処はシャン高原の標高1,100mに在って涼しく、イギリスが避暑地として開発した町だ。インパールからは400Kmも離れていた。
第一線への命令は全て電報で、実情を無視した督戦ばかりだったらしい。このため各師団からは、400Kmも離れたメイミョーで戦場の実情が分かるのかと不満の声が多かった。そのため、作戦開始から1か月半も経った4月20日になってから、軍司令部をチンドウィン河西岸のインダンギー(Endaigyi)に移した。

第33師団(弓・仙台)は、インパールの前に立ちはだかるビシェンプール(Bishnupur)の攻略に掛かるが、イギリス軍の火力の前に突破できず、戦力を消耗しながらビシェンプールを包囲したまま、2カ月以上戦況が膠着していた。そして雨季が到来していた。
牟田口第15軍司令官は、6月5日、インパールに肉薄しながら攻め込まない第33師団と第15師団の師団長を更迭した。

各戦線ともイギリス軍の空と陸からの猛攻に耐えていたが、補給の全くないまま、飢えと悪疫も加わって兵の消耗ばかり激しくなり、全滅の危機が迫っていた。
コヒマの第31師団長は、度重なる補給要請を無視されたことから、独断撤退を司令部に通知する。
1944年(昭和19年)6月1日、コヒマ(Kohima)ーインパール連絡路の守備に、コヒマ市内で激戦中の宮崎支隊を残し、師団主力はついに独断で退却を開始した。
コヒマに残された宮崎支隊は、支隊長宮崎繫三郎少将以下、歩兵第58聯隊(新潟の高田)と1個山砲(砲兵)の3000名の部隊だったが、度重なる戦闘で600名迄減少していた。
地域の持久と師団主力の撤退を援護するため、何ら支援も無いまま、イギリス軍の補給基地ディマプルからの道と、コヒマーインパール連絡路の交差するコヒマ三叉路高地に布陣するイギリス軍と、兵士が互いに手榴弾を投げ合う様な壮絶な近接戦の死闘を繰り広げるが、イギリス軍はディマプルより第2師団と第161インド旅団20,000人がコヒマに肉薄してきたため、17日間戦線を維持したのち、6月21日ついにコヒマ・インパール連絡路から撤退する。

宮崎支隊撤退後、インパールを目指すイギリス軍の先にはコヒマーインパール連絡路上のミッションで、第15師団松村部隊(歩兵第60聯隊・京都)がインパール方面のイギリス軍と交戦中だった。その背後からコヒマ方面からのイギリス軍が襲い掛かかったため、前後に敵を受け退却せざるを得ず。
3月29日、第15師団(祭・豊橋/京都)によって遮断されていたたコヒマ(Kohima)ーインパール連絡路は、6月22日ついにイギリス軍によって打通された。これにより、インパール作戦全体が瓦解した。

1944年(昭和19年)7月3日、南方軍(総軍)および当時ラングーン(現ヤンゴン)のラングーン大学内にあった緬甸(ビルマ)方面軍司令部より、正式に作戦中止命令が発令された。
7月13日撤退命令が各師団司令部に伝達され、退却開始は7月16日とされた。各師団が進攻のためチンドウィン河を渡河して4カ月後であった。

退却は前進より遥かに困難だ。
この難しい退却戦を陣頭指揮するはずのインダンギ―にあった第15軍司令部は、前線各部隊の撤退に先んじてチンドウィン河を渡り、シュエジンへ後退してしまった。
さらに7月28日には、前線に多くの将兵を残したまま、牟田口第15軍司令官は一部参謀と副官のみを伴って司令部を離れ、後方のシュエボ(Shwe Bo)に向かっていた。

7月12日、第15軍命令は以下。
第15師団(祭・豊橋/京都)はウクルル→フミネ→タウンダット道を、チンドウィン河畔のタウンダット地区に転進、集結すべし。退却開始は7月16日。
第31師団(烈・バンコク)は、チンドウィン河畔のシッタン西側地区に橋頭保を築き、山本支隊(第15師団)の退却を援護。
山本支隊はチンドウィン河畔のモーレイクに転進して、カレイミョウ方面に南下する敵を阻止し、退却する第33師団(弓・仙台)の背後を援護する。
第33師団は既にインパール盆地のビシェンプール迄進出していたので、7月17日転進を開始してトルボン狭隘地を圧迫しながら、主力はチャカ→トンザン→ティデム→カレイミョウ道をティデムに転進するとされた。

インパール作戦戦況図(靖国神社遊就館図録より)

インパール作戦の退却路とイラワジ河(エーヤワディー河)付近図

総退却が始まった。
雨季の土砂降りの雨の中、アラカン山系内を飢え、病に苦しみ、退却の難行軍に耐えられない者は落伍し、道に倒れ、あるいは自決し、兵器装備の殆どを失いながらチンドウィン河を目指して退却を開始した。
将兵は雨季で泥沼の密林の中を300Kmから500Km撤退しなければならなかった。500Kmとは東京⇔大阪間より長い。傷つき飢えた兵士が退却する道に、力尽きた兵士の屍が累々とすることになった。

第15師団(祭・豊橋/京都)は7月13日ウクルルから退却を開始した。この時点で師団の兵員(通常は平時編成でも15000~20000名)は6~7000名、そのうち戦闘に耐ええる人員は3~4000名に過ぎず、火砲は全滅、重機関銃も全滅、馬は師団で僅か4頭だった。
第31師団(烈・バンコク)は、6月1日コヒマから独断撤退しフミネ付近に到着したが、コヒマーインパール道に残された宮崎支隊の消息はつかめず、宮崎少将戦死の報も伝えられていた。

しかし宮崎支隊はチャランからソルボンと転戦し、激戦のウクルルからルンションに退って来た時、コヒマーインパール道のミッションで連絡道の遮断を行っていた第15師団の松村部隊と合流。松村部隊は僅か78名しか残っていなかった。
ここで7月7日に第15軍が発した「第15師団は速やかにインパールに突入すべし」との命令を聞き、普段上司の批判を口外しない重厚な宮崎少将が「まだそんなことを考えているのか。気狂いだ」と言ったという。

チンドウィン河畔のタウンケットやシッタンには、第15師団(祭・豊橋/京都)や(第31師団(烈・バンコク)の主力、あらゆる部隊の患者(約2000名)、食料が尽きて動けなくなった兵、部隊から逸れた単独兵など1万数千人が集まっていた。
チンドウィン河の渡河部隊は患者や部隊の渡河を続けていたが、舟が岸辺に着くや否や、我先に駆け込む患者や兵の姿があり、統制もつかない状態になっていたらしい。
イギリス軍の報告では、過去2年間にわたる東南アジアの戦闘で、殆ど1名の捕虜も出さなかった日本軍が、1週間に100名以上の捕虜を出すなど、自主性を放棄した集団になって行ったと記されている。
それ程第15軍の敗北は、雨季最盛期に無秩序な退却を起こしていた。

第33師団(弓・仙台)は、2ヵ月半に及ぶビシェンプール西方陣地に対する強襲により、既にその戦力は尽きていた。
6月30日の段階で、歩兵部隊の笹原聯隊(歩兵第213聯隊・水戸)は146名、作間聯隊(歩兵第214聯隊・宇都宮)は224名、これでは聯隊(通常平時編成では1500名)ではなく中隊だと自嘲せざるを得ない程だった。
補給部隊の輜重聯隊の馬匹は36頭のみ。
師団の戦死者7000名、戦病者5000名で、師団の70%を損耗していた。

第33師団は7月17日チンドウィン河畔に向け、まずはカレワ道をティデムに向け退却を開始した。最も長い第33師団(弓・仙台)の退却距離は、なんと800Kmに及んだ。しかし第33師団の後からは、執拗に重砲と戦車を伴う英印軍(第5インド師団、第20インド師団)が追撃して来た。さらに第11東アフリカ師団をカレイミョウに南下させ、第33師団の退路を断とうとしていた。

日本軍の退却が始まった7月から11月まで、英印軍は雨季の最中も東へ南へと一路チンドウィン河を目指して追撃を続けていた。
これは第15軍の敗残兵を掃討するばかりでなく、日本軍の体勢の整わぬ間に一気にチンドウィン河を渡河して、11月の雨季開けには英印軍の主力を、航空機や戦車などの機動力を存分に展開できるシュエボ、マンダレーの平原まで進出させることを意図していたのだ。
第15軍が中部ビルマまで撤退すれば、次は日本軍の補給基地を遮断して、北部ビルマで作戦中の第33軍を孤立させることが出来る。

英印軍の追尾を受けながら、11月25日、第33師団がようやくチンドウィン河の西カレーワ(Kalewa)に到着した時、残存兵力は僅か2,200人。損耗率は84%に上っていた。
そして11月20日、最後にチンドウィン河を渡河することが出来た。

日本軍は、この作戦に参加した戦力約85,000人の裡、約19000名が戦死・戦病死している。
作戦後の第15軍隷下の各師団の残存兵力と損耗率は以下。
第15師団(祭・豊橋/京都)の残存兵力は、約3300名、損耗率は78%。
第31師団(烈・バンコク)の残存兵力は約5000名、損耗率は67%。
第33師団(弓・仙台)の残存兵力は約2200名、損耗率は84%。
各師団の将兵の約40~50%は死亡し、残りの50~60%の過半数は後送患者として戦列から離れて行った。
「消耗戦」として、また悲惨な作戦として知られるソロモン諸島の「ガダルカナル島」の戦闘では、陸海軍合わせて35230名が参加し、撤退時の人数10630名、戦死者24600名と、損耗率は69%だった。
インド国民軍は、参加兵力6,000人のうち、チンドウィン河まで到達できたのは僅か2,600名で、その後に戦死、戦病死1,500名の損害を受けて時事上壊滅した。
イギリス第14軍(英印軍)の損害も、死者約15000人、傷者約25000名、合計約40000名に上っていた。