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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

トルコからギリシア、イタリアへひとり旅(2018年) <58> まだ31日目 ローマ国立古典絵画館・そして帰国の準備

<31日目ー2
2018年 6月13日 水曜日 ローマ 晴れ のち雨 暑い。25度。

<ローマ国立古典絵画館に行く

午前中、買い物の帰り、テルミニ駅構内で危うくスリの被害に遭うところだったが、なんとか切り抜けて来た。

午後は、念願だったローマの国立古典絵画館(バルベリーニ宮 Galleria Nazional d’Arte Antica National Gallery of Ancient Art in Barberini Palace))に行くことにした。


テルミニ駅からメトロA線に乗り、2駅目のバルベリーニ駅(Barberini)で降りる。
ベルニーニ作のほら貝から水を吹き上げる海の神トリトーネの噴水(Fontana del Tritone)のあるバルベリーニ広場から、ヴィ―コロ・バルベリーニ(vicolo Barberini)の路地を上がって行くと、門を入って前庭の先に三階建てのバロック建築の建物が見えてくる。これがバルベリーニ宮の国立古典絵画館だ。

なんでも1953年の映画「ローマの休日」で、オードリー・ヘップバーン扮するアン王女の滞在する某国の大使館の門は、撮影にこの門が使用されたらしい。

バルベリーニ宮

入場料12€(約1,620円)を払って館内に入る。

中には、12世紀から18世紀のいわゆる古典絵画が展示されている。
有名なラファエロの他、フィリッポ・リッピやカラバッジオ、エル・グレコから所謂レオナルデスキの作品など、様々な時代の絵画が揃っている。

「レオナルデスキ」とは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の工房で働いていた弟子や、レオナルドの「スフマート」などの様式上の追随者と見られている画家たちだ。殆どの作品が、細かい絵の具を何層にも重ね合わせて、線や輪郭をぼかす「スフマート」で描かれている。


<ルネッサンス期の絵画>
14~16世紀に起こったルネッサンス期に、その中心地だったフィレンツェで活躍したピエロ・ディ・コジモ(Piero di Cosimo)(1463-1521)の「読書するマグダラのマリア」。

ピエロ・ディ・コジモ(Piero di Cosimo)の「読書するマグダラのマリア」

これも16世紀のフィレンツェ派の無名画家による肖像画。

フィレンツェ派の無名画家によるイザベッラ・デ・メディッチの肖像

ルネッサンス期のドイツの画家で、スイスやイングランドで活躍したハンス・ホルバイン(Hans Holbein)(1497-1543)の「ヘンリー8世の肖像」。

ハンス・ホルバイン(Hans Holbein)(1497-1543)の「ヘンリー8世の肖像」

14~16世紀に起こったルネッサンス期の絵画は、それ以前のいわゆる中世絵画がキリスト教の宗教絵画が中心で、人物も無表情で平面的なのに対し、ギリシア・ローマ文化にあった人間性の発露や自然主義的な写実性、均整の取れた調和的な絵画だと言われている。代表的な画家は、レオナルド・ダ・ビンチ(Leonardo da Vinci)やミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)、ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)達だ。この絵画館でもラファエロがある。

しかし長い中世の後に、何故急にそんな運動が起こったんだろう。いつも疑問に思っていた。

良く言われているのが、ヨーロッパの中世を支配していたキリスト教会の衰退だ。
13世紀までローマ教皇は絶大な権力を誇っていたが、1095年から1291年の200年の間に7から8回行われた十字軍の遠征(Cruciata、Crusade)や、1339年から1453年まで行われたイングランド王とフランス王の間で行われた「百年戦争」、1346年から1353年に大流行した「黒死病」(ペスト)などにより次第に教皇権が衰退して行った。

さらに教皇がフランス王フィリップ4世と争い、その結果1309年から1371年の間、教皇庁がフランスのアビニョンに移され、フランス王の監視を受ける、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」が起きた。
更に1378年から1417年までローマとアビニョンにローマ教皇が2名並立する「教会大分裂 大シスマ(Great Schism)」が起きて、教皇権威が失墜した。

さらに十字軍のエルサレムやエジプトへの遠征によって、地中海を中心とする東方貿易が盛んになり、イタリアに莫大な富がもたらされた。

アナトリア半島に興ったオスマン帝国によって、1453年首都コンスタンチノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡し、ギリシア人の知識人や芸術家が大挙してイタリアに逃れて来た、なども影響があった様だ。

この間、ルネッサンス期の芸術を支えた技術的な革新もあった。
1300年代ジョッド・デ・ボンド―ネ(Giotto di Bondone)の「遠近法」の開発、1315年ボローニャで、モンティーノ・デ・ルッツィ(Mondino de Luzzi)が始めた西ヨーロッパ初の人体解剖、ネーデルランドのヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)らの油彩技術の確立などだ。
これらが相互に影響し合って、ルネッサンス期の芸術が開花したと言われている。



<マニエリスム(Mannerism)の絵画>
その後16世紀に入ると、ルネッサンス芸術の中心だったイタリアの没落が顕著になる。
イタリアは1861年、リソルジメント(Risorgimento)により統一国家になるが、それ以前は小国に分裂して、それぞれの国が周囲の大国の影響下にあった。
そのイタリアで、1521年からヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(スペインと神聖ローマ帝国)によって争われたイタリア戦争が勃発する。
中でも1527年に、神聖ローマ帝国兼スペイン王カール5世の軍隊がローマに侵入して、有名な「ローマ劫掠 Sacco di Roma)」を行い、多くの美術品が破壊され芸術家も四散した。
また1520年、ラファエロ・サンティが亡くなり、これらをもってイタリア・ルネッサンスの終焉と考える人が多いらしい。

一方この時代は、ビザンツ帝国を破って東地中海の制海権を手に入れたオスマン帝国とヴェネチアが地中海を支配し、イスラム諸国との貿易を独占していた。そのため地中海西端のイベリア半島にあったポルトガルやスペインは交易を求めてアフリカを目指すことになった。
当時イスラムを介して伝わった羅針盤を得て、外洋航海が可能になったため、この2国によって新しい大航海時代が始まっていた。


その当時盛んになってきたのがマニエリスム(Mannerism)だった。
これはこの時期に、フィレンツェで活躍したアーニョロ・ブロンズィ―ノ(Agnolo Bronzino)(1503-1572)の「ステファノ4世コロンナの肖像」。

アーニョロ・ブロンズィ―ノ(Agnolo Bronzino)の「ステファノ4世コロンナの肖像」

マニエリスム(Manierismo ,Mannerism)とは、イタリア語で「マニエラ maniera」(手法、様式)の意味らしい。
マニエリスム絵画の特徴は、ルネッサンス最後期のミケランジェロの「マニエラ」を最高の芸術的手法と考えて、この模倣が目的の芸術が出現した。
しかし次第に、ルネッサンス期のラファエロなどに見られる明快で調和のとれた表現から、蛇状体(フィグーラ・セルベンティナータ」と呼ばれる、曲がりくねり、引き伸ばされた人体表現などに変化して行く。
因みにマニエリスムは、マンネリズムの語源らしい。

マニエリスムの後期に、ギリシア領クレタ島出身でイタリアやスペインで活躍したエル・グレコ(EL Greco)(1541-1614)の「キリストの洗礼」。

エル・グレコ(EL Greco)(1541-1614)の「キリストの洗礼」

 

<バロック(Baroque)の絵画>
16世紀のヨーロッパは大航海時代の展開で、新大陸から大量にもたらされた金・銀によって商工業が発達し、人口も増加していた。
しかし1620年代に入ると、新大陸の銀の産出量が減少。ヨーロッパへの銀の流入が減じると経済成長が停滞し、下降に転じた。更に天候不順から度重なる飢饉が発生し、人口も減少してくる。いわゆる「17世紀の危機」が起きた時代だ。

また1517年のマルティン・ルター(Martin Luther)の宗教改革よって、1618年始まったドイツ内の新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)の争いが、ヨーロッパの国家間の覇権を争う「三十年戦争」(1618~1648年)にまで発展していく。

同じく宗教改革に危機感を募らせたカトリック側は、1545~1563年に開かれた「トリエント公会議」(Concilio di Trento)で、美術を用いての布教を決定する。

これらの時代背景の中、16世紀末から18世紀半ばに掛けて興ったのが「バロック芸術(Baroque)」だ。
もともとはポルトガル語で「歪んだ真珠」(barroco)から来た名前らしい。
ラファエロに見られる古典的な調和と均整を理想とする静的なルネッサンス美術に対し、動的で劇的な迫力に満ちた表現や、豊かで深い色彩、強い明暗の対比などの新しい表現が見られた。

バロック絵画の形成に大きな影響を与えたと云われる、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Mehisiola Caravaggio)の「ホロフェルネスの首を切るユーディット」。

写実的な人物描写や、明暗を大胆に取り入れた劇的な構成だ。

カラバッジオ(Michelangelo Mehisiola Caravaggio)の「ホロフェルネスの首を切るユーディット」

同じくカラバッジオの「祈る聖フランチェスコ」

カラバッジオ「祈る聖フランチェスコ」

どれも学校の教科書や画集などで観たことのある絵ばかりだ。
見惚れていてなかなか足が進まない。本当に素晴らしい。もっと早くここに来れば良かったとつくづく思う。

天井画も素晴らしく、バロック期のピエトロ・ダ・コルトーナ(Pietro da Cortona)(1596-1669)のフレスコ画「神の摂理の勝利」が、館内2階の天井一面に描かれている。

ピエトロ・ダ・コルトーナのフレスコ画「神の摂理の勝利」


バロックの後は、1789年のフランス革命やナポレオン戦争、1760年から始まる産業革命の時代だ。
美術の変遷も、ロココ時代、新古典主義などを経て、1873年に第1回展を開く印象派など「近代絵画」の時代になる。


<そして想うこと>
素晴らしい絵画を見ながら、何となく思う。
対象をリアルに描き出すバロック絵画などは、技巧的に凄いと思いつつも、感性的にはどうも十全に好きになれないところもある。
その点近代絵画の印象派の絵画の方が、もともと日本の浮世絵などに影響を受けているせいもあり、より私たちの感性に近いような気がする。

しかし心地良いだけでは、絵を十分に味わったとは言えないかもしれない。此処にある絵画、ルネッサンスからマニエリスム、バロックへの変遷も、時代背景や技術的な革新があってそれぞれ絵の描き方や表現の仕方が変化している。絵の中に、その変化を知るという見方もまた楽しいものだと改めて思う。

しかし明治以降の日本人の西洋画体験は、どうも印象派だけが先走っている様な気がする。それ以前の所謂「古典絵画」の体験が乏しく、いきなり西洋画=印象派絵画の様な感覚だ。私だけの感覚かなぁ。でも何故なんだろう。

日本の西洋美術教育が始まったのが、1876年明治政府の工部省内に作られた工部美術学校が最初だ。これは多分に美術と云うより、工業製品などの写生のためらしく、写実性が基本だった。
しかし1896年には文部省が東京美術学校に西洋画科を発足させ、パリ留学中印象派の影響を受けて帰って来た黒田清輝が教授になった1898年ごろから、日本の西洋画の主流はどうも印象派っぽい気がする。

特に若者に影響を与えた西洋画の紹介で有名なのが、1910年(明治43年)に武者小路実篤や志賀直哉など学習院の学生が、時の院長乃木希典に反発して発刊した文芸雑誌「白樺」で、ロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノアールなど、いわゆる後期印象派の画家などを紹介している。

しかしこの年は、日韓併合や幸徳秋水らの「大逆事件」の起きた年だ。
当時東京朝日新聞社の校正係だった石川啄木は、「時代閉塞の現状」で、日本の青年は国家については「父兄の手に一任している」と書いた。
「白樺」などの青年は、国家や社会のことは「父兄の手に一任」して、個人、個性の伸長に忙しかったのだろう。そう出来る人の特権として。

いや、私たちの印象派好きな感性が養われたのは、単に教育や絵画を取巻く環境のせいだけだろうか。
もっと抜本的に日本人の感性の中に、これらのいわゆる西洋画の「古典絵画」より、印象派の写生の様な単純さや後期印象派のゴッホやゴーギャンの様な絵を好ましく思う感覚があるのかもしれない。形がデフォルメされてやや抽象化し、逆に色彩が単純な絵画が心地よいような。

私は特にゴーギャンが好きだ。タヒチの風景など絵の題材と云うより、輪郭線を強調して平らな色面で構成する手法「クロワゾ二スム(Cloisonnism)」。これって浮世絵の手法そのものだ。
でも日本的な手法だから好ましいのではなく、「平板」だから好ましい。そこに原色が塗られて、陰影も無く立体感も無い。これが良い。

若い時に岩波文庫でウィルヘルム・ヴォリンゲル(Wilhelm Worringer)の「抽象と感情移入」と言う美術史論を読んで、随分感動した思い出がある。
主に東洋芸術と西洋芸術の違いを論じた内容だったが、いわゆる西洋美術(主にルネッサンス以降の古典主義)がギリシア・ローマ美術に代表されるように、自己を感情移入して「客観化された自己を享受」するものだったのに対して、当時遅れたもの、未開の世界の産物と卑下されていた古代人やアフリカなどの未開芸術は、外界に脅かされていることにより対象から主観性の排除が行われ、より抽象的になるというものだ。

古代人や未開芸術はこの抽象性により、空間的な描写が抑制されて「平面化」するのが特徴だ。決して写実性を求めてはいない。
実はルネッサンス以前のキリスト教絵画も、イコン(Icon 聖像画)に代表されるように極めて「平面的」だ。
もともとキリスト教も、母体であるユダヤ教を引き継いで「偶像崇拝」を禁止していた。
教会は、丸彫りの彫像は「偶像」、絵画や浮彫などの平面芸術は辛うじて「偶像」に当たらないとしていた。従って6世紀から12世紀くらいまでは丸彫りの彫像が無くなり、絵画も空間表現がない平面的になったと読んだことがある。
それが教義的にも改められたのが、1517年のルターによる宗教改革に対抗して開かれた1545~63年のカトリックの「トリエント公会議」(Concilio di Trento)で決まった「美術を用いての布教」だった訳だ。

西洋の古典絵画を見る時、私の眼は絵の中に、自分や自分が見知ったものに似た形や、表情、感情などを探している。しかし仏像や焼き物や、ある種の日本画などは、その対象の中に何かを探すということはなく、自分と同じ空間に在ってくれれば、その気配が感じられるなら良いという様な違いがある。

古代人は現実の空間を常に見続けているので、自分とその空間の間に緩衝材としての何かを求めたのかもしれない。不安定な現実に「それ」を補完することで、安定感を得ていた。それが彼らの美術だったのかもしれない。
そしてどうも日本人も、私もだが、古代人の抽象衝動に近い感覚で、美術をそういうものとして求めているのかもしれない。


色々なことを想いながら館内を歩いていたが、その矢先、「好事魔多し」で途中から強い腹痛が起きて来た。
余計なことを考えながら観ているからこういうことに…。でも、痛たた!!
暫らくじっとして治まるのを待っていたが、なかなか治まりそうもない。う~ん、仕方ない!帰ることにする。

アン王女の滞在する某国の大使館の門を出ながら、嗚呼!ラファエロの「ラ・フォルナリーナ」を見逃した!!

 

<帰りの準備・自分の気持ちに導かれて始めた旅も、帰る時は他の人たちの中に戻って行く。>
ホテルに戻って来た。トイレを済ませる。どうも「古典美術館」で消化不良を起こした様だ(笑)。

買ってきたスーツケースに荷物を詰めてみる。
沢山のお土産。大きなスーツケースの半分以上を占めている。子供たち、孫、友人たち、近所の人。「う~ん」と唸るが、仕方ない。これが現実だ。
自分の気持ちに導かれて始めた旅も、帰る時は他の人たちの中に戻って行く。
私たちの旅行では、出発するときと帰る時では、別の人間なのかもしれない。

17:30 外ではこの旅行で初めて、本格的な雨が降っている。
夕食を食べようとVia Magentaの新金酒家を覗いてみるが、まだ時間が早いからか鍵が閉まっていた。
傘をさして、マルサーラ通りの反対側の、テルミニ駅横のCO-OPに行く。
サラミの入った作り置きのパニーノとカットされたパイナップル、2Lのペットボトルの水、小さなチョコレートを買う。全部で16.45€(約2,220円)。パニーノは2.49€(約335円)だ。小さなチョコレートは一個2.13€(約290円)。

ホテルに戻って、レセプションにいたご主人に、「Tomorrow, Check-out time is 7:00AM,is it okay? 明日のチェックアウトは7:00だけど大丈夫か?」と聞くと、OKだと。
ホテルの部屋で、買ってきた冷えて固くなったパニーノとパイナップルを食べる。
この旅で食べる最後の夕食。随分私らしい夕食だ。
欧米人は食事の際必ず飲み物を飲む。これって硬いパンや肉を食べる時、少しでも柔らかくするためなんじゃ無いかなぁと、硬いパニーノを齧り、炭酸水を飲みながら思った(笑)

今晩の夕食

明日の予定。
朝7時ごろチェックアウト。
7:35 テルミニから空港への電車「レオナルド・エクスプレス」。
ETHAD航空 EY86 ローマ・フィウミチーノ空港 11:15 → 19:20 アブダビ
ETHAD航空 EY86 アブダビ 22:05 → 13:00(6/15) 成田空港。

いよいよだ。