歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

トルコからギリシア、イタリアへひとり旅(2018年) <54> まだ29日目 サン・ピエトロ寺院を目指すが、何故かサンタンジェロ城へ。

<29日目ー2

2018年 6月11日 月曜日 ローマ 晴れ 暑い。28度。

 

<バチカンのサン・ピエトロ寺院を目指すゾ!!>

カブール駅近くでATMを見つけ、なんとか現金を手にできた。しかし、いよいよ旅のお金が乏しくなってきた。

 

ホテルを出て再びテルミニ駅に戻り、お腹が空いたので、駅前のマルサーラ通り沿いのファストフード店のピッザリア(Pizzeria)に入る。
ショーケースの中からマルゲリータのビザを選び、注文すると、四角く切って出してくれる。
店内のイートインカウンターで食べる。生地が薄く美味しい。コーラと共で6€(約810円)。

ピッザリアのマルゲリータ

 

今度はバッティスティー二(Battistini)行きの地下鉄A線に乗り、オッタビア駅(Ottaviano)で降りる。テルミニ駅から6ツ目だ。

人がゾロゾロ行くので、Google Mapは不要だ。観光客が歩く道には、アフリカ系、イタリア人、アジア系、男性、女性と、それこそ様々な人種や性別の「ガイド」(?)が、首からIDカードの様なものを下げ、両手にA4位の案内カードを掲げて、2、3m置きに立っている。みなバチカン美術館やサン・ピエトロ寺院内への案内の勧誘をしている。これは新宿の歌舞伎町や福岡・中洲の客引きどころではなく、凄い密度だ(笑)。


幸か不幸か私には声が掛らなかったので(笑)、そのまま真っ直ぐ進むと、「天使の門」に当たる。ここはイタリア共和国とバチカン市国との「国境」で、此処を潜るとバチカン市国入りだ。
所謂「国境」超えだが、普通の観光客はパスポートチェックもセキュリティチェックも何も無いし、国境を越えたという意識そのものも無い。

いまイタリアやローマを訪れて、ローマ法王が居ることに何の違和感も持たない。逆に何でわざわざ「バチカン市国」などと言う別の国家が必要なのかさえ不思議だ。しかしそこにはなかなか深い歴史があるらしい。

バチカン市国は1929年に、教皇ピウス11世と時のイタリア王国首相ムッソリーニとの間で結ばれた「ラテラノ条約」によって誕生した。

これは遡ると、中世以来小国に分裂して、それぞれがオーストリアやスペイン、フランスなどの列強の影響下にあったイタリアが、19世紀に入って始まったイタリア統一運動(リソルジメント Risorgimento)の中、カブールやマッツィーニ、ガリバルディなどの活躍でようやく1861年、サルディーニャ王国を母体としてイタリア王国が建国された。これって1868年の明治維新の僅か7年前だ。
しかし、この段階ではまだ多くのイタリアの地域が王国に編入されずに残されていた。そのうちの主要な地域が、オーストリアに占有されていたヴェネチアのあるヴェネト地方と、フランスの保護下にあったローマ教皇領だった。

1866年6月15日、北ドイツのプロイセン王国が、当時加盟していたオーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦を脱退したことにより「普墺戦争(プロイセンとオーストリア戦争)が始まり、イタリア王国もオーストリアのヴェネト地方占有を不服として、6月20日オーストリアに宣戦布告する。
戦争開始からプロイセン軍が攻勢で、8月23日にはプロイセンの勝利でプラハで講和条約(プラハ条約)が結ばれている。10月12日には、イタリアも個別に講和し(ウィーン条約)でヴェネト地方をがイタリア領として回復する。

残るのはフランスの保護下にあったローマ教皇領だった。
1870年7月19日、プロイセン王国とフランス帝国との間で始まった「普仏戦争」で、ナポレオン3世による第二帝政のフランスが敗北。この結果、1871年1月5日にドイツの統一国家であるドイツ帝国が成立し、プロイセン国王がドイツ皇帝ウィルヘルム1世として即位する。
これは1868年の明治維新の僅か3年後だ。

この中で、ローマ教皇領を守っていたフランス軍が撤退した。
代わってイタリア王国によるローマ占領後、イタリア王国は教皇に対し、バチカンおよびラテラノ宮殿の占有と引き換えに年額32万5千リラの支払いを要求した。
教皇側がこれを拒否したため両者が対立し、関係が途絶。
その後ローマ教皇はバチカンとローマ市内の一区域しか訪れることが出来なくなったと言われている。

これが所謂「ローマ問題」で、1929年になってようやくイタリア王国と教皇側が問題の解決に乗り出し、同年2月11日「ラテラノ条約」が結ばれた。
因みに「ラテラノ」の名は、サンジョバンニ・ラテラノ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)に隣接する、14世紀に教皇庁がバチカンに移るまで歴代教皇の住居として使われていたラテラノ宮で締結されたためだ。

 

天国の門を潜って国境越え

門を潜って中に入ると、ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)の設計による広大なサン・ピエトロ広場(Pazza San Pietro)と、ミケランジェロなどの設計による巨大なクーポラを持つサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の前に出た。

サン・ピエトロ広場とサン・ピエトロ大聖堂

イエスの最初の弟子で、イエスから「天の国の鍵」を授けられたとされる初代ローマ教皇 聖ペテロ(シモン・ペトロ Petro)が、紀元67年ローマの皇帝ネロの迫害で、逆さ十字架にかけられて殉教。
その墓と伝えられるバチカンの丘(Mons Vaticanus)に、最初にキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世によって、324年に殉教者記念教会堂として建てられたのがこの巨大な聖堂の始まりらしい。
現在の建物は2代目で、1626年に建て替えられたもの。カトリック教会の総本山だ。

聖ペテロの殉教は、昔岩波文庫で読んだポーランドの作家ヘンリク・シェンキュヴィッチの小説「クオ・ヴァディス」(Quo vadis)でも描かれている。

ローマでキリスト教への迫害が激しくなり、ローマを離れようと夜アッピア街道を歩いていたペテロの前に、こちらに向かって来るイエス・キリストが現れる。

「クオ・ヴァディス、ドミネ?(Qou vadis ,Domine?)主よ、何処に行くのですか?」と尋ねると、イエスは「あなたが我が民を見捨てるなら、私はローマに行って、いま一度十字架に架かろう」と答えた。
これを聞いたペテロは来た道を引き返し、ローマで捕らえられ、逆さ十字架に架けられて殉教した。

私がギリシアのパトラ(Patra)で行った、東方正教会の「神聖アンデレ教会」で祀られている聖アンデレは、聖ペテロの弟だ。

 

広場には左右に噴水と、中央にはカリグラ帝の戦車競走場にあったと言われるエジプトのオベリスクが立って居る。

サン・ピエトロ大聖堂の正面には巨大なファサードがあり、向かって左端に天国の鍵を持った聖ペテロ像、右端には聖パウロ像が立って居る。大聖堂の北には、ローマ教皇が住むバチカン宮殿が建っている。

 

せっかく来たので今日は大聖堂に入ってみようかなと安易な気持ちでいたが、何と入場を待つ人たちが、あの聖人像を戴いた巨大なアーチ型の列柱廊コロネード( Colonnade)に沿って長大な列をなしている。
あれに並んだら、どれだけ時間が掛かるやら。しかも陽射しの照り付ける中だ。私は外出時、殆ど帽子を持って行かないので、あれは堪えそうだ。諦めよう。

サン・ピエトロ広場のコルネードに沿って並ぶ観光客の列

その代わり、サン・ピエトロ大聖堂からローマ市内を流れるテヴェレ河(Tevere)に向かって真っ直ぐ伸びた通りの先に建つ、あの異形な姿のサンタンジェロ城(Castel Sant`Angelo)に行ってみよう。


広いコンチリアツィオーネ(Via deka Conciliazone)通りを真っ直ぐ行く。
此処にはバチカンに係るいろいろなお土産屋が並んでいる。ティーシャツでも買おうかなぁと覗いて見ると、他のローマのお土産屋に比べ倍位高い。財布も乏しくなっているのが、よけい身に染みるなぁ(笑)。

コンチリアツィオーネ(Via deka Conciliazone)通り


<サンタンジェロ城>

サンタンジェロ城(Castel Sant`Angelo)に着いた。
14€(約1,900円)払って入場券を買って入る。

この特異な円形の渦巻き状の城塞は、最初は古代ローマの皇帝ハドリアヌスの霊廟としてテヴェレ河右岸に建てられ、その後砦として改築され、ローマ教皇の避難所としても使われたらしい。
700m離れたサン・ピエトロ大聖堂からはパッセト・ディ・ボルゴ(Passetto di Borgo)の通路で繋がっているとのこと。
実際に1527年、ローマが神聖ローマ皇帝兼スペイン王「カール5世」の軍に占領され、大略奪を受けた所謂「ローマ劫掠(Sacco di Roma)」の時は、教皇クレメンス7世が此処を避難所としている。

渦巻き型の特異な形のサンタンジェロ城

中は薄暗く、古い武具などを陳列した部屋を通り、螺旋を描いた階段を登って行く。
建物自体褐色の円形の渦巻き型の作りや、この内部の螺旋状に登って行く通路、薄暗さまで、規模こそ大分違うが、昔行ったインド・ケララ州のトリバンドラム(Trivandrum)に在った「コーヒーハウス」を思い出した。サンタンジェロ城を最初に見た時、あっ、「コーヒーハウス」だと思ったくらいだ。

あそこは傾斜する螺旋状の通路に、テーブルが据えられたレストランになっていた。
その地で偶然出会った、イスタンブールからイラン、パキスタンを通ってインドまで旅行して来た若い女性の2人組と、一緒に食事したのを思い出した。似た様な建物ってあるんだなぁ。

内部は暗い通路を通って行く。

暗い通路を抜け、大天使ミカエルの像が立つ、頂上のテラス(Terrazzo dell’Angel)に出る。
此処からはローマ市内の大眺望が望める。
眼下には緑色の水面を光らせ蛇行して流れるテヴェレ河の涼しげな姿と、そこに掛かる、左右の欄干にベルニーニとその弟子たちによって作られた彫像が並んだサンタンジェロ橋(Ponte Sant`Angelo)が見える。
サンタンジェロ橋の袂には、映画「ローマの休日」で水辺のダンス場になった河辺のレストランが並んでいる。
遠くに昨日行った白いヴィットリアーノの姿、後ろにはサン・ピエトロ大聖堂の巨大なクーポラが見える。
陽射しが強いが、風が通って気持ちが良い。汗が引くようだ。

遠くにヴィットリアーノも望める。

テヴェレ河と河沿いのレストラン

サンタンジェロ城を出て、サンタンジェロ橋まで歩いてみる。
此処も多くの人が、橋を渡って来る。

サンタンジェロ橋から見たサンタンジェロ城。


<有名な食品店カストロ―二に行ってみたが・・・>

テヴェレ河沿いに降りて、しばらく散策する。
移動販売車の売店でガス入りの水を買う。何と2€(約270円)もした。しかし喉が渇いた時はガス入りの水が美味い。
歩いていると、左足の踵が痛くなって来た。
ローマの道は細い路地も石畳で、凸凹しているので、余計脚に負担が掛かるのかもしれない。路地にはゴミや犬のフンも落ちているので、気を付けないと踏んで仕舞う。

テヴェレ河沿いからテレンツィオ通り(Terenzio)を歩き、コラ・ディ・リエンツォ通り(Via Cola di Rienzo)に面した食品の有名店としてガイドブックにも載っていた「カストローニ」(Castroni)に行ってみる。
息子のお嫁さんがイタリアの食品を欲しがっていたのだ。

食品が沢山並んでいる棚を見て回るが、知識の無い私には良く分からない。
近くで欧米人の女性客が店員と話している中で、「ペペロンチーノ」という言葉を聞きつけた。
その観光客が立ち去ってから棚の側まで行って、棚の上から可愛い陶器に入った調味料を手に取って見ると、イタリア語で書かれた説明書きの中に「Peperoncino」の文字があったので、2種類買う。7.6€(約1,030円)。でも、これが「ペペロンチーノ」の素なのかは、分らない。
今度はメトロA線のレバント駅(Lepanto)から乗って、テルミニに戻ってきた。

 

夕飯はまた中華に行く。筍と鶏肉の醤油炒めとチャーハンの定食6.5€(約880円)、お茶1.4€(約190円)。毎度ながら、美味しい。