歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

トルコからギリシア、イタリアへひとり旅(2018年) <51> 28日目 ローマを歩く。フォロ・ロマーノからコロッセオへ。

<28日目ー1>

2018年 6月10日 日曜日 ローマ 晴れ 29度。暑い。

 

<ローマでランドリーと朝食>
朝は、昨夜テルミニ地下のスーパーマーケットで買っておいたジュースと、パレルモからの夜行列車で出たパイ生地のお菓子を食べる。このホテルには朝食は付いていない。
血圧が高いので医師から処方されている降圧剤の薬と、旅行に出た時だけ服用しているビオフェルミンを飲む。

歯を磨く。すすぎは水道水で、最後にペットボトルの水で1度だけ漱ぐ。
トイレを済ませて、温水のシャワーを浴びる。洗い場が狭くて、文字通り浴びるだけだが気持ちが良い。最後に目だけペットボトルの水で一度すすぎ、結膜炎予防の目薬をさす。これが旅に出た時の、昔からの日課だ。もっとも若い時は「降圧剤」は飲んでいないけどね(笑)。

 

9:00過ぎ、ホテルを出る。
今日はシチリア島のパレルモで買ったバーゲン品のグレーのポロシャツに、下は山に行くとき穿くグレーのズボンだ。それに使い古したウェストバッグを、肩から斜めがけにしている。中には財布、iPhone、Cheeroの予備バッテリーが入っている。
沢山の洗濯物を紙袋に入れて持っていたので、レセプションの女性に「laundry?」と聞かれたので、頷いた。


ホテル前のミラッツォ通り(VIA Milazzo)を、駅と反対方向にワンブロック進むと昨日見たlaundryがある。
店に入って、洗濯物の入った袋を見せて「Please this laundry. これをお願いします」と言うと、南アジア系の男性から「wash or dry?」とまた聞かれた。

シラク―サでも聞かれたが、意味が分からない。どちらが良いのか見てもらおうと洗濯物を袋から置いてあった籠の中に出す。ズボンやシャツの他は靴下や下着だ。それを見て、店の人もそれ以上聞かず「OK」と言って、7€(約950円)だと。

シラク―サの時より沢山出したのに、安いなぁと思った。お金を払って、「When will it be ready? いつ出来るの?」と聞くと、2時間後だと。えっ⁈ 「today's? 今日の?」と言うと、今日だと。「What time is the store open ? いつまで店は開いて居るの?」と聞くと17:00迄だと。

 

テルミニ前のマルサーラ通り(VIA MARSALA)まで戻って、通り沿いのカフェ「CAFFE BINARIO ZERO」に入る。
カウンターでコルネット(クロワッサン)とカプチーノを頼み、奥のテーブル席に座る。4€(約540円)。殆どのお客は、立ったまま飲んだり食べたりしている。

私が運ばれてきたコルネットとカプチーノを、これが「今日の朝食」ですとばかり、記念にiPhoneで写真を撮っていると、それを見たレジの若いふくよかな女性が、にっこりしながら寄って来て「take a photo?」と聞いてくれたので、「今日の朝食」を前に私も写真を撮って貰った。

朝のカフェ。殆どの人は立ったままだ。


<フォロ・ロマーノForo Romanoへ>

テルミニの地下からメトロB線でコロッセオ駅に向かう。改札ではRoma Passを使う。
二駅目のコロッセオ駅で降りると、既に駅前は朝の通勤ラッシュの様に観光客でいっぱいだ。見るとコロッセオの入場口も長蛇の列。昨日より凄いかもしれない。

でも私はコロッセオには向かわず、1932年、当時イタリア王国首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が、軍事パレード用に遺跡の真ん中を横切って造ったと言われるフォーリ・インペリアリ通り(Via dei Fori Imperial)をヴェネチア広場方向に向かう。

10分くらい歩いて、昨日歩いたカブール通りと交差する近くにある、フォロ・ロマーノ(Foro Romano)の入場口まで来た。
フォロ・ロマーノの入場口はコロッセオ側にもあるらしいが、ブログなどではこちらの方が空いているらしい。見ると確かに此処では20人ぐらいが入場券を買うのに並んでいるが、コロッセオと比べると、拍子抜けするくらい少ない。
私は入口の係員にRoma Pass を見せて、そのまま通る。

フォーリ・インペリアリ通り沿いの入口

フォロ・ロマーノの遺跡は広い。入口を入って右手、方角的には西に進むと「バジリカ・エミリア(Basilica Aemilia)」の遺跡がある。バジリカ(Basilica)は古代ローマでは会議や裁判などに用いられた回廊の様な建物だったらしい。

「バジリカ・エミリア」の先にある装飾のない箱型の建物が「クーリア(Curia)」(元老院)だ。他の建物は基礎や柱が何本か残って居るだけだが、これは建物がそっくり残っている。共和政ローマの最も大事な建物だ。アメリカの議会上院は「Senate」と言うが、これはローマの元老院「Senatus」が語源らしい。
この建物は、ローマ時代以後教会として利用されたため残ったらしい。

バジリカ・エミリア跡の先にクーリア。

西方向は「セルヴィス帝の凱旋門」で行止りで、この端からはローマの7つの丘のひとつカピトリーニの丘に続く。
奥にローマの市庁舎「セナトリオ宮(Palazzo Senatorio)」が見えるが、その土台は紀元前78年に作られたローマの公文書館「タブラリウム(Tabularium)」だ。

セルヴィス帝の凱旋門。奥に見える市庁舎の土台はタプラリウムの跡。

「セルヴィス帝の凱旋門」で折り返し、方角を東に取ると、古代の大通り「ヴィア・サクラ(Via Sacra)」の右側(南側)は、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Lulius Caesar)が作った「ユリウス ・バジリカ」、そして「カストールとボリックス神殿」と続き、「ロムルス神殿」、「マクセンティウス・バジリカ」から、ローマに残る最古の凱旋門「ティトス凱旋門」で終わる。この凱旋門は紀元70年エルサレムでの戦勝記念に建てられたものらしい。

ちなみに古代ローマ時代、国家の勝利に貢献した司令官を民衆の前で讃えるイベントである凱旋式(Triumphus)では、凱旋将軍は王位の象徴レガリアregaliaである月桂冠を被り、紫のトーガtogaを纏い、ローマの最高神ユピテル・カピトリヌス(Capitoline Triad)を表すため顔を赤く塗って、4頭立ての戦車クアドリガQuadrigaに乗り、兵士、捕虜、戦利品を携えてローマ市内を行進した。

この行列は、フォロ・ロマーノを貫くヴィア・サクラ(Via Sacra)を通って公文書館タブラリウム(Tabularium)の脇を抜け、カピトリーノの丘にあった「ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルヴァ神殿(Aedes Iovis Jupiter Optimus Maximus,Juno,Minerva)」に奉献するかたちで行われた様だ。

この先はローマで一番旧いパラティーノの丘に続く。

ティトス帝の凱旋門

私もパラティーノの丘に登る。帝政時代には皇帝の宮殿があったここからは、眼下に大帝国だった古代ローマの中枢のフォロ・ロマーノが一望出来る。
日本の霞が関みたいなものだが、地中海世界を網羅した大帝国の中枢としては、意外とこじんまりしている。
すぐ隣には巨大なコロッセオがあり、朝よりももっと沢山の観光客に囲まれている。
あの意外に小さな「クーリア」と巨大なコロッセオは、古代ローマの政治と民衆の関係を象徴している様にも見える。

パラティーノの丘のファルネシアーニ庭園からは、フォロ・ロマーノが一望できる。

振り向けば、まじかにコロッセオ。

 

<コロッセオColosseo>

フォロ・ロマーノを出て、いよいよコロッセオに向かう。
パラティーノの丘を降りて、キリスト教を最初に公認したことでも知られる、これも大きな「コンスタンティヌス帝の凱旋門」(Arco di Constantino)の脇を抜けて進む。

コロッセオからフォロ・ロマーノに向かう人たち

近づくにつれコロッセオは巨大で、iPhoneを構えてどんな構図にしても、一枚の画面には入り切らない。しかも入場を待つ観光客の列が、楕円形のコロッセオを取巻く様に延々と伸びて居る。

列の最後尾を見つける。2列に分けるように柵が出来て居る。右手は先が見えないくらい延々と人が繋がって居るが、左側は人がいない。
私は左側をずんずん進んで、途中にいた髭を綺麗に刈った係のお兄さんにRoma Passを見せると、先に行けと促された。
しばらく進むと、今度は荷物のセキュリティチェックだ。

此処を過ぎて、今度がチケットで、Roma Passは一番左側の列になって、カードをチェック機械に当てて施設の入場が2回目までか確認してOKを出す。
Roma Pass は3日間の公共交通機関フリーと、遺跡など2カ所までがフリーなのだ。

コロッセオ入場に並ぶ人たち。私はローマパスが有るので左側を行く。

コロッセオ(Colosseo)の中に入る。
床板が無くなって、地下にあった楽屋裏が剥き出しになって居る。周囲を見渡しても余りの巨大さに圧倒される様だ。

床板が無く、巨大な地下の構造まで見える。

二階に上ってみる。
現代の野球場位あるが、それが全て石で出来ている。紀元70年にヴェスパシアヌス帝によって建てられた、2,000年も前の建物なのだ。細い柱は崩壊を防ぐため何重にもワイヤーで補強されている。

2000年前に造られたとは思いない巨大な構造物

剣闘士のレリーフ

コロッセオの周囲は、あの大勢さに驚いたギリシアのアクロポリスの、その何倍もの観光客で溢れて居る。
旗を持ったガイドに先導された団体が多い。日本人の団体もいた。欧米人は団体も多いがグループが多い。中国人は団体、韓国人は団体か若い男女のカップル、日本人は団体。個人もいたのかなぁ。
私のいままで行ったある程度有名な観光地には、韓国人のカップルがいた。1人旅の旅行者は見なかった。日本人は居ない。今は日本人より韓国人の方が、海外に出ようと言う意欲が旺盛なのかなぁ。

 

<ヴィットリアーノVittoriano>
11:15を過ぎた。
もう少し行ってみようと、コロッセオを出て炎天下のフォーリ・インペリアリ通り(Via dei Fori Imperial)を更に20分近く歩いて、ヴェネツィア広場(Piazza Venezia)にある「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Monumento a Vittorio Emanuele Ⅱ)」(ヴィットリアーノ Vittoriano)に行く。

1861年のイタリア統一を記念して1911年に完成した巨大な大理石の建物で、ローマのどこからも見え、それと判る建物だ。第一次世界大戦の無名戦士の墓があり、不動の衛兵が2人立っている。

ローマのどこからでも見える白いヴィットリア―ノ

テラスに上がると、イタリア王国初代国王「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世」の騎馬像越しにローマの街が一望出来る。

眼下にヴェネチア広場が見える。左手がヴェネチア宮。

イタリアの統一は意外に遅い。中世以降イタリアは小国に分裂し、それぞれの国が周囲のオーストリア、スペイン、フランスなどの強国の影響下にあって争いが続いていた。それが1789年のフランス革命と、それに続くナポレオン戦争によってイタリア統一運動「リソルジメント(Risorgimento)」が起こり、紆余曲折の末1861年3月サルディーニャ王国を中心にしたイタリア王国が建国された。
初代国王に即位したのが、サルディーニャ王国の国王であったヴィットリオ・エマヌエーレ2世だ。
本来イタリア王国の初代国王なら「1世」なのだろうが、どうも系譜はサルディーニャ王国のそれを引き継いでいるらしい。

目の前がヴェネツィア宮殿(Palazzo Venezia)で、第二次大戦時のかつてのイタリア王国首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が、2階のバルコニーから広場を埋めつくした市民に向かって演説した場所だ。

イタリアが共和国になるのは、第2次大戦後の1946年以後だ。

ヴェネチア宮

しばらく風に吹かれて居る。海が近いのか、カモメがとまっている。