<9日目ー5>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<日本軍第25軍の上陸と進攻>
侘美支隊のコタバルKota Bharu上陸と同時に、タイ領のシンゴラSingora、パタニPattani、ターベTak Baiに上陸しようとした日本陸軍第25軍(司令官は山下奉文中将)主力は、タイ国政府から日本軍のタイ国領内の通過を認められたのが上陸決行の前日の12月7日だったため、通達の遅滞から幾分かの反撃は受けたものの無事上陸を果たしていた。
これは日本軍が行おうとする、「マレー作戦」(1941年11月の南方作戦陸海軍中央協定では「E作戦」と呼称)の始まりだった。
第25軍主力は、近衛師団、第5師団、第18師団で編成されていた。
近衛師団は、通称号「宮」で、編成地は東京。歩兵団は近衛歩兵第3聯隊、近衛歩兵第4聯隊、近衛歩兵第5聯隊。
近衛師団そのものは、本来天皇と宮城(皇居)の護衛を任務とするため、これらの歩兵聯隊には徴兵などを司る聯隊区はなく、全国から選抜された兵士によって編成されていた。
またマレー作戦に従軍している近衛師団(「宮」)の他に、東京で宮城を守護する留守近衛師団があり、マレー作戦終了後の1942年(昭和17年)6月1日には、留守近衛師団を近衛第1師団(1GD「隅」)、マレー作戦に従軍の近衛師団を近衛第2師団(2GD「宮」)に改編している。
第5師団は、通称号「鯉」で編成地は広島。司令官は松井太久郎中将。歩兵団は歩兵第11聯隊(広島)、歩兵第21聯隊(浜田)、歩兵第42聯隊(山口)。
南方作戦に際し、第14軍隷下でフィリピン攻略戦に参加した第48師団(48D「海」)とともに、上陸戦に於ける揚陸能力を備えた極めて重要な機械化師団で、1941年11月6日に南方軍隷下の第25軍の戦闘序列に入っている。
第18師団(18D)は、通称号「菊」で編成地は九州の久留米。司令官は、後にビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦で汚名を着ることになる牟田口廉也中将。歩兵団は歩兵第55聯隊(大村)、歩兵第56聯隊(久留米)、歩兵第114聯隊(福岡)。
開戦劈頭1941年(昭和16年)12月8日午前02:15に、マレー北部のコタバル(Kota Bharu)に敵前上陸したのは、久留米の歩兵第56聯隊を基幹とする侘美支隊だったが、その時牟田口司令官はじめ師団主力はまだ仏領インドシナ(現在のベトナム)南部のカムラン湾に集結して、出撃の命令を待って居た。
敵前上陸した侘美支隊は大きな損害を出したが、その後タイ領に上陸した部隊と共に、順調にマレー作戦が進行したため、第18師団主力は1月22日になってタイ領シンゴラに無傷で上陸している。
当時イギリスはじめ連合国軍にとって、極東防衛の要は、イギリス軍とシンガポールの海軍基地だった。このためシンガポールには、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア連合司令部、「ABDA COM」(American-British-Cutch-Australian Command)が置かれていた位だ。
しかし開戦直後、日本軍の「比島攻略戦」(1941年11月の南方作戦陸海軍中央協定では「M作戦)で、フィリピンのアメリカ極東空軍が壊滅し、マレー沖海戦で海軍の陸攻機によりイギリス東洋艦隊の主力戦艦2隻を失ったため想定が崩れていた。
その後僅か55日間で、第25軍は、マレー半島1,100Kmを踏破。これは概ね東京から下関間の距離に匹敵する。
1942年(昭和17年)1月31日、マレー半島の最南端ジョホールバルを占領した。
前方のジョホール水道越しに、「マレー作戦」の最終目標であるシンガポール要塞が指呼の間に望めた。
<シンガポールの戦い>
1942年1月31日、最後の連合国軍兵士がマレー半島から撤退し、イギリス軍工兵隊がジョホールバルとシンガポールを結ぶコーズウェイを爆破。これで半島と島を隔てるジョホール水道に橋は無くなった。
この後2月3日から5日間、日本軍の砲兵隊によるシンガポール要塞への間断ない砲爆撃が続いたのち、2月8日午後20:30、島の西側より第5師団、第18師団の兵を乗せた舟艇がジョホール水道を渡河し始めた。
「マレー作戦」(「E作戦」)の最終目的地である、シンガポールへの攻撃が始まった。
対岸からは、オーストラリア軍の砲火が絶え間なく火を噴いたが、翌暁には上陸に成功した。
更に近衛師団による北地区よりの上陸を阻止しようと、連合国軍は島に備蓄していたスマトラ産原油を海に流し、これに放火する「重油戦術」に出た。
ジョホール水道の海水面は炎を上げ、黒い煙が立ち上ったが、上陸を阻止することは出来す日本軍の上陸を許した。
日本軍の第5師団と第18師団は、テンガー飛行場に続き、シンガポール市街の北西9Km、標高177mと同島最高地点で、市街を防衛する正面陣地の様な位置にあったブキッ・ティマBukit Timah(錫の丘)高地を攻撃。
2月10日夜襲を掛ければ、連合国軍は照明弾を上げ、周囲は真昼の様に明るく照らしだされた中、機関銃、迫撃砲などの銃撃戦ののち、手榴弾と手榴弾を投げ合う白兵戦になった。
2月11日の03:00に、ようやくこれを占領。
連合国軍の弾薬と燃料の貯蔵場所、さらにシンガポールの水源地も占領し、「水の手」を断った。
2月11日、山下第25軍司令官は、自軍の兵站が間に合わず補給物資が枯渇しかかっているのを知って、それを秘匿しながら、連合国軍司令官パーシヴァル中将に降伏勧告を行った。
これは08:40、激しい対空砲火の中、英軍司令部上空で航空機から勧告文を投下した。
勧告文には、軍使の前進路は、ブキッ・ティマ道路とし、軍使は大白旗および英国旗を掲揚すべしと付記されていた。
しかし連合国軍からの反応はなく、各地でさらに激しい戦闘が続いていた。
<パレンバン急襲>
この中、1941年(昭和17年)2月14日11:30、マレー半島ジョホール州のカハン(kahang)とクルアン(Kluang)の飛行場から飛び立った日本陸軍「第一挺進団」の空挺部隊が、蘭印スマトラ島の大油田地帯パレンバンPalembangに落下傘降下している。
当時パレンバン上空は、雲多く、雲高200m、また第25軍によるシンガポール攻防戦の火災による煤煙が市内を流れるムシ河(Sungai Musi)までたなびき、視度極めて不良と伝えられている。
上空800mには、一緒にカハンから直掩してきた飛行第64戦隊(64FR 加藤隼戦闘隊)の一式戦(隼)が、敵機の来襲に備えて戦闘空中哨戒していた。
第一次攻撃隊では、パレンバン飛行場に第一梯団180名、ムシ河を挟んだ対岸のプラジュー(Plabju)地区やスンゲイゲロン(Sungai Gerong)地区の石油精製施設に第二梯団の70名が降下し、翌朝未明までに約2000名のオランダ軍守備隊を排除して、飛行場やロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設を占領している。
日本軍の「南方作戦」の最大の目標は、蘭印の石油資源の獲得にあったが、パレンバンはその中でも最大の目標だった。
空挺作戦は、その石油施設を蘭印軍の破壊の前に確保する必要があったためだ。
更に、同時に進められようとしていた「蘭印作戦」(南方作戦陸海軍中央協定「H作戦」)の最終段階である、ジャワ島上陸に向け、東部へ上陸予定の第48師団(「海」)や西部へ上陸予定の第2師団(「勇」)の将兵を乗せた輸送船が、すでに南部仏印(ベトナム)のカムラン湾に待機中であり、同地域最大の飛行場であるパレンバン飛行場確保は、喫緊の最重要目標だった。
それはセレベス(スラウェジ島)方面で、海軍の零戦も歯が立たなかった米軍のB-17やB-24などの大型爆撃機が、パレンバン飛行場から飛来することを深く憂慮していたためだった。
この作戦のため、同時進行中の「マレー作戦」に参加していた第三飛行集団の一部である、飛行第64戦隊(64FR)や第59戦隊(59FR)が、挺進飛行戦隊の100式輸送機などの直掩機として加わっていた。
このためマレー作戦に一部影響が出たと言われている。
<シンガポールの占領>
パレンバンに空挺降下があった翌日の2月15日14:00ごろ、シンガポール島の中央、ブキッ・ティマ道路に沿って進撃中の第5師団杉浦部隊の正面に、突然英国旗を掲揚したイギリス軍参謀ニュービギン少将他2名の軍使が現れ、降伏申入れを受諾する旨の回答を行った。
連合国軍も、100万もの市民など非戦闘員が避難する地区にまで砲爆撃にさらされ、食料と弾薬が底を尽き始め、さらには水の供給が断たれる惧れが出ていたのだ。
2月15日、激戦地ブキッ・ティマ高地近くのフォード自動車工場の事務所で、山下第25軍司令官を始めとする日本軍と、司令官パーシヴァル中将他連合国軍による交渉が行われ、連合国軍が無条件降伏を受諾し戦闘は終了した。
2月15日連合国軍が降伏したとき、約5,000名戦死・負傷し、パーシヴァル中将他約10万人が捕虜となっていた。
そのうち白人5万人、インド人5万人と言われている。
武装解除された軍人は、英人兵はチャンギ兵営、インド人兵はニースン兵舎に収容された。
<シンガポールのインド兵>
2月17日午後、日本軍は捕虜となったインド兵約45.000名を、元競馬場だったファラ・パークに集め、降伏式を行った。
そしてこのとき集まったインド兵捕虜を前に、「F機関」の藤原岩市少佐がこう述べた。
「インド兵が自ら進んで祖国の解放と独立の戦いに忠誠を誓い、INAに参加を希望すれば、日本軍は捕虜としての取り扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面支援を与える」
インド兵は総立ちとなって狂喜し、帽子が空中に投げ上げられ、歓喜のどよめきが起こった、と伝えられている。
これが後の、インド国民軍の主力になった。
「F機関」は、1941年9月、藤原岩市陸軍少佐をトップに、インドの対英独立工作を行うため設立された、諜報・宣撫工作・対反乱作戦などを行う特務機関だ。当時メンバーは10名程度で、全員が陸軍中野学校出身者だった。
開戦直前、南方軍の指揮下に入り、インド独立連盟(IIL: Indian Independence League)のプリタム・シン(Pritam Singh)や、インド国民軍(ⅠNA : Indian National Army)のモーハン・シン(Mohan Singh)とともに、インド国民軍への参加を勧誘していた。
モーハン・シンはマレーの戦いで、ケダ州(Kedah)のアロー・スター(Alor Setar)で捕虜となったのち、藤原少佐の勧誘で一緒に活動していたのだ。
アロー・スターは、のちにマラヤ連邦の初代首相になるラーマン首相の出身地だ。
連合国軍の降伏の翌2月16日、シンガポール市内には第25軍の第2野戦憲兵隊が入って、ここを作戦地域とした。
更に市街の外周の治安確保は、第5師団、第18師団が担当することとなった。
日本軍は、部隊をシンガポール市内に入れて。不祥事の起こることを恐れ、各師団に対し停戦時の線を越えて市内に進入することを禁じていた。
この中で、「シンガポール華僑粛清事件」(1942年2月~3月)が起きた。