<9日目ー20>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<独立宣言は何故マラッカで行われたのか>
実はマラッカを散歩して、独立宣言記念館を訪れた際、気になっていたことがあった。
1956年2月20日、翌年の独立に先立って、トゥンク・アブドゥル・ラーマンTunku Abdul Rahmanマラヤ連邦首相は、ここマラッカで、国民に対し独立を確認する「独立宣言」を行っている。
1945年8月17日、スカルノ(Sukarno)は後の首都ジャカルタ(Jakarta)で、インドネシアの独立を宣言。
1945年9月2日、ホーチミン(Ho Chi Minh)も後の首都ハノイ(Ha Noi)で、ベトナムの独立を宣言。
1947年8月15日、ネルー首相によるインドの独立宣言は、首都デリーのレッド・フォート前で行われ、1949年10月1日、毛沢東は首都北京の天安門で中華人民共和国の建国を宣言している。
何故彼は、首都のクアラルンプールやその他の地ではなく、此処マラッカを選んだのだろう。
築島謙三氏の示唆に富んだ論文「マレー人の民族意識」によると、マレー人にとって、スルタン制とスルタン諸王国の生みの親であったマラッカという場所は、今もマレー人の大きなこころの支えになっているためらしい。
1957年当時、マラヤ連邦の人口は約628万人。半数の312万人がマレー人だが、移民である華人は233万人に上り、その数は20世紀初頭より4倍に膨れ上がっていた。
マレー人の間では、このままでは華人がマレー人を追い越して、既に圧倒的な支配力を持っている経済力ばかりか、政治までもコントロールし兼ねないとの危機感が募っていた。
マレーの地では、いつの時代も藩王国の時代から続くスルタン制のもとでマレー人は保護されてきたという強い思いと、イスラム教を中心にマレー人が結合することを措いて、華僑や華人に対抗する道はないと考えていたという。
さらにマレーでは、殆ど全ての王族が、自らは過去のマレーの黄金時代を成したマラッカ王国の子孫であると自称して誇りにしているらしい。
スルタン制を支持することでマレー人の政治的優位性を求める人々にとって、両方の意味でマラッカは心の拠り所、ソウルシティなのかもしれない。
ミャンマーにおけるビルマ人心の変換線と言われた、ビルマ族最後の王朝コンバウン朝終焉の地マンダレーの様なものなのかもしれない。
このため、自らもクダ王国(Kedah)の王族の出身であるアブドゥル・ラーマン首相は、最初に独立宣言を行う場所として、マラッカを選んだのかもしれない。
<マレーシアを揺るがす民族対立>
1957年のマラヤ連邦の独立後、マレー半島南部にイギリス保護国の北ボルネオ(British North Borneo)、イギリス領サラワク(Crown Colony of Sarawak)を統合して、1963年9月16日成立したマレーシア(Malaysia)でも、民族間の対立は続いていたが、それが激化して、1969年5月13日にはマレーシア史上最悪の民族間暴動が起きた。
直接の原因は、5月10日に行われた総選挙の結果だった。マレーシアの政治は、1957年の独立以来、アブドゥル・ラーマンを首班とする、マレー人団体の統一マレー国民組織(UMNO)と、マレーシア華人協会(MCA)、マレーシア・インド人会議(MIC)の3党の連立政権だった。
いわゆる独立前の1954年に成立した「ALLIANCE」で、これはのちに与党連合「国民戦線」(Barisan Nasional)と呼ばれていた。
ラーマンの政策は基本的に自由放任主義で、マレー人、華人、インド人の民族間の融合政策だった。そしてその根底にあるのが、政治はマレー人、経済は華人の棲み分けが原則だった。
しかし独立から12年経過し、マレー人は経済的には華人に対して劣後の状態で、多くの人々は貧困に瀕していた。
このため政府は、マレー人の多い農村部の開発や、華人がほぼ独占している商工業部門へマレー人の参入を促す「第2次5か年計画」(1961年~1965年)を実施した。
一方の華人も、マレー人優遇政策への反発を抱いていた。
マレー語しか公用語として認められず、華語による教育すら危ぶまれていた。独立後10年間は英語が公用語とされたが、英語を話す華人は同じ中華系の中でもエリートで、一般の華人は政府の政策に反感を抱いていたのだ。
そんな中行われた1969年の総選挙で、与党「国民戦線」(BN:Barisan Nasional)が大きく議席を減らしたのだ。
逆に大躍進を遂げたのが、「グラカン(Gerakan)」(マレーシア民政運動)、「DAP」(民主行動党)、「PPP」(人民進歩党)などの華人勢力だった。
華人は意気盛んで、クアラルンプール市内で野党勝利の祝賀行進が行われた。
一方のUMNOを支持したマレー人青年たちがクアラルンプールの下町カンプンバル(Kampung Baru)を出発して行進している最中、華人によるマレー人に対する扇動的な言動が引き金となり、両者が衝突。死者196名、負傷者439名を出す大惨事となった。
この結果、ラーマンは1970年9月に首相を辞任している。
この後、マレーシア政府は、華人・華僑の経済的優位に対し、マレー人の地位向上を図るため、1971年からマレー人優先の「ブミプトラBumiputera政策」を進めている。
政策として、マレー人への企業の設立時の租税の軽減、公務員の優先採用、国立大学への優先入学などが行われている。