<9日目ー19>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。。
<1955年連邦議会総選挙>
「マラヤ連邦協定」では、依然としてイギリス人の高等弁務官の管轄下に、イギリスと保護領的関係が支配していたが、一方自治への第一歩となる連邦議会の総選挙が、1955年㋆27日に行われた。
この総選挙にあたって、「マラヤ連合」が成立する1946年に相前後して設立された、トゥンク・アブドゥル・ラーマン(Tunku Abdul Rahman)率いる「統一マレー国民組織」(UMNO)と「マラヤ・インド人会議」(MIC)、さらに共産党が武装蜂起して「非常事態」(Malayan Emergency)が宣言された1948年の翌年に結成された「マラヤ華人協会」(MCA : Malayan Chinese Association)の3団体は、が、3党連盟(ALLIANCE)を組んで選挙戦に挑んだ。
これは、①イギリス連邦(Commonwealth)内での独立を目指す、②反共産主義、③マラヤの独立のためにはマレー人と華僑の間の了解が必要である、との共通認識を持ったためだった。
この結果、52議席中51議席を獲得する圧倒的勝利を収めた。
一方、1946年3月に最初に、「統一マレー人国民組織」(UMNO)をつくったダトー・オン・ビン・ジャファールの「ネガラ党」は、マレー人のマラヤ、華僑排斥を唱えた(Negara Party)が、1議席も取れなかった。
この選挙結果を受けて、㋆31日、ラーマン首相は「マラヤ連邦」政府の内閣を組織。
イギリスの保護領体制における、イギリス人高等弁務官の管轄下であったが、外交や防衛問題以外は、大幅な自治が認められた。
<英政府との独立交渉>
1956年になると、アブドゥル・ラーマン Abdul Rahman首相は、ロンドンで保守党のアンソニー・イーデン(Anthony Eden)首相のイギリス政府と、1月18日から3週間にわたる「マラヤ連邦制憲会議」における交渉の結果、独立協定の調印をした。
現在のイギリスの保護領体制を脱し、独立後は、対外防衛、外交上の責任もマラヤ連邦が持つとされた。
しかし、あくまで英連邦内の独立で、条件としてマラヤに於いて、イギリスやそれ以外の外資の資産の接収は行わない。さらに、イギリスはマラヤ領内に英連邦の国際義務遂行に必要な兵力を駐屯させておく権利を留保した。
独立は、1957年8月末までに実現すると、同意した。
しかし「独立」は、マラヤにとって悲願ではあったが、それよりも現在は前途の多難さが危惧された。
最大の懸念は、マラヤ共産党MCPの武装闘争に伴う国内の治安だった。
1948年6月に出された「非常事態」宣言は、まだ解除されておらず、共産ゲリラの活動も下火になりつつあると言っても、各地でまだ起こっていた。
独立により、これらの治安対策はイギリス植民地政庁からマラヤ連邦政府の責任となる。
国内的には、イギリスの庇護を失い、マレー人が華人など他民族との競争に晒される。
果たして「独立」がマレー人に、利益をもたらすのかという疑念が払拭できないでいた。
<マラヤ連邦の独立>
1957年8月31日、「マラヤ連邦」(Federation of Malaya / Persekutuan Tanah Makaya)は、宗主国であるイギリスと戦火を交えることなく、イギリス連邦(Commonwealth of Nations)の一員として独立した。
国土は、マレー半島部のみだった。
首都は、植民地時代の「マレー連合州」からの首都だったクアラルンプール(Kuala Lumpur)。
この国は、マレー語では「Persekutuan Tanah Melayu」というが、「相結ぶマレー人の国」という意味で、制定された憲法では「マレー人の国」と明記されていた。
しかし1956年の連邦人口比では、マレー人50.2%、華人・華僑37.9%、インド人11.9%で、必ずしも「マレー人の国」を標榜するほどマレー人の数が大多数と言えるほどではなかった。
その中で、戦後イギリスが軍政から最初に移行させた「マラヤ連合」では、一時失われたマレー人の優遇的地位を保証する「マレー人保留地条例」(Malay Reservation Enactments)は継続された。
公務員の場合は、戦前はイギリス人とマレー人のみ、その後暫時インド人、華人も採用され出したが、下級公務員までだった。
新憲法でも、公務員のみならず営業その他の分野でも、マレー人のための一定数の確保を元首の責任と明記された。
これらマレー人への強調された優遇措置は、「独立」に於いて、マレー人が抱いた懸念、イギリスの庇護を失い、マレー人が華人など他民族との競争に晒される危惧への、新国家からの回答だった。
これを可能にしたのは、1948年から続くマラヤ共産党MCPやゲリラによる「マラヤ危機」が強く影響しているのかもしれない。
マラヤ共産党、マラヤ人民解放軍MNLAとも、メンバーの殆どが華僑・華人であったからだ。
新国家でも、マラヤ共産党MCPは非合法となった。
憲法では、イギリスの高等弁務官に代わって、9つのマレー人の藩王国の支配者会議(Conference Of Rulers)で選出されたマレー人が元首となると決められた。
初代首相はトゥンク・アブドゥル・ラーマン Tunku Abdul Rahman(1903年2/8~1990年12/6)。彼はタイと国境を接するケダ(Kedah)王国の、アロースター(Alor Setar)の出身だ。
1951年に、ダト―・オンを党首としてジョホールバルで結成された、マレー人のナショナリズム政党の統一マレー国民組織UMNO(United Malayas National Organisation)の党首となった。
「マラヤ連邦」は、このUMNOと、マレーシア華人協会(MCA)、マレーシアインド人会議(MIC)の3党の作る連立政権だった。
暗黙に、政治はマレー人、経済は華人が原則だった。
連邦の「宗教」はイスラム教と明示されたが、他の宗教への信仰は妨げられない。
国語はマレー語(Bahasa Melayu)のみ。独立後10年間は英語が公用語とされたが、連邦内の人口(1956年)で37.9%を占める華僑や中華系の人々の使用する中国語、11.9%のインド人が使用するインド語などは退けられた。
<独立後の歩み>
1957年の「マラヤ連邦」の独立は、マレー半島部のみだった。
その後、1963年8月、ボルネオ島のサラワクsarawak (イギリス国王直轄領サラワク Crown Colony of Sarawak)、サバSabah(イギリス保護領の北ボルネオ British North Borneo)が独立。
1963年9月16日 マラヤ連邦にシンガポール、サラワク、サバが編入され、連邦国家「マレーシア」(Malaysia)が誕生した。
しかし、1965年8月9日、マレー人を優遇する政府と、住民の殆どが華人のシンガポールの対立が激化して、シンガポールは共和国として独立した。
1989年12月、マレーシア政府はMCPと和平協定を結んだ。