<9日目ー11>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。今日は「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<軍政から民政へ>
連合国軍(のちにイギリス軍)による軍政は、1945年9月5日から1946年3月末まで続いた。
軍政から民政に移行するにあたって、2つの大きな課題があった。
ひとつは、高まる労働運動と、その背後にあるマラヤ共産党MCPへの対応をどうするか。
もう一つは、大戦後のイギリスのマラヤ統治計画である「マラヤ連合」を発足させるための下準備だった。
大戦後のマラヤの行政復興計画の立案は、すでに1942年にイギリス本国の植民地省で開始されていたらしい。
戦前のマラヤは、3つの地域に分かれて統治されていた。
(1)シンガポール、マラッカ、ペナンと、他の島からなる海峡植民地。これはイギリスの直轄植民地だ。
(2)マレー連合州(Federated Malay States)
錫鉱の開発やゴム園の開拓、鉄道の敷設などが行われた半島西岸のペラPerak、セランゴールSelangor、ネグリ・センビランNegri Sembilan、パハンPahangなど4州。
州に居た藩王(スルタンSultan)は、マレー人の宗教と慣習のみの支配者となり、税の徴収や管理、一般行政は、各週に置かれたイギリスの駐在官(Resident)が行った。
これらイギリスの保護領(Protectorate)では、統治はイギリスの海峡植民地総督(Governor)のもとで連邦を組織。
(3)マレー非連合州(Unfederated Malay states)
マレー半島北部の、ケダ―Kedah、ケランタンKelantan、トレンガヌ―Trengganuの3州と、東南部のジョホールJohore。いずれも首長国でイギリスの保護領(Protectorate)だが、イギリスの顧問(Adviser)が条約締結により統治に参加。連邦を組織せず、地域間の相互協力も有しない。
これらはそれぞれ統治機関が異なり、複雑な行政は社会、経済の開発を妨げ、軍事戦略上も支障が出ていた。
新しい行政復興計画の方向は、より効率的な植民地経営を経て、自治の準備を進めることだった。
実は植民地経営は、防衛の問題を含め、自治より遥かに経費の掛かることなのだ。自治は、戦後の疲弊したイギリスの国力に見合った植民地統治方法だった。
<「マラヤ連合」とマラヤ人市民権>
そのために考えられた新しい統治の形は、こうだった。
シンガポールをマラヤから切り離し、イギリスの直轄植民地とする。
シンガポールの分離は、自由貿易港の維持、軍港の確保というイギリスの希望と共に、その他のマレー諸国が抱く、シンガポールによる経済支配への恐怖を考慮してのものだった。
シンガポールを切り離して、その他のマレー連合州、マレー非連合州、さらに海峡植民地の一部のマラッカ、ペナンの植民地までを一体とした新しい統治形態が「マラヤ連合」(Malayan Union)だった。
この構想は、1944年5月、イギリス政府の了解を得ていた。
さらに、戦後の1945年10月10日、イギリス下院でシンガポールを切り離した新しい国家「マラヤ連合」の設置計画を発表した。
中央に行政・立法会議を統括する知事を置き、各州にも地方議会を設置する。
一方スルタンの権限は、すべての州で、イスラム教や慣習に関連する事項に限定される。
これは事実上のスルタン制の廃止だった。
さらにこの計画の中には、新しい概念の「マラヤ人市民権」が導入される予定だった。戦前は、海峡植民地(シンガポール、マラッカ、ペナン)で出生した者は、イギリス臣民(British Subject)だった。臣民とは、イギリス帝国(君主国)の国民だからだ。
一方、保護領であるマラヤ各州で出生した者は。マレー臣民でもイギリス臣民でもなく、イギリス保護領民(British Protected Persons)とされていた。
それに対し、新しくできる「マラヤ連合」では、マラヤ、シンガポールに生まれ、住む者は、種族の如何を問わず、市民権が付与される。いわゆる市民権の「出生地主義」が採用されていた。
これによって、華僑やインド人など、外来移民の市民権獲得への途が大きく開かれ、人種間の無差別平等の原則が謳われていた。
しかし、この「マラヤ連合」案では、信仰や人種に関係なく、出生や一定年限の居住によって、マレー人も華人も、インド人も同じになってしまう。これにはマレー人は違和感を覚えた。
これは戦前、「マレー人保留地条例」(Malay Reservation Enactments)に拠って、先住民族のマレー人に与えられていた様々な特権を否定するものだった。
①耕作地の他人種への譲渡禁止。
②公務員、警察官、自衛軍への採用優先。
③マレー人教育の保護
イギリスの「マラヤ連合」案の中で、「マラヤ人市民権」が登場した背景には、戦前、戦中一貫してイギリスはじめ連合国軍を支援してきた華僑への優遇策により、高まる労働運動やその背後にあるマラヤ共産党MCPからの離反を計る狙い、さらには消極的ながら戦時中日本軍の軍政に協力的だったマレー人への、懲罰的な意味合いがあったのかもしれない。
<マレー人・ナショナリズムの高揚とマラヤ連合の成立>
「マラヤ人市民権」(案)に対し、意外にも華僑や華人からは特に積極的な支持の機運は起こらなかった。華僑や華人は、戦前マラヤで生まれ育っても、マラヤの市民権は与えられなかった。
そのため、華人は中国人を名乗り、中国語を学んだ。そして中国の国籍の保持に拘っていたためだった。
マラヤ共産党MCPは、マレー人知識分子は、狭隘な民族理念を持ち、公民権問題で華僑の二重国籍に反対している。マレー人は、スルタンの地位と公民権にのみ関心を持ち、愛国心の後進性を示していると主張していた。
一方マレー人からは、スルタンなど藩王はじめ、一般のマレー人市民まで激烈な反対の声が上がった。
イギリスが植民地経営で有利だとした程「ナショナリズムが殆ど見られなかった」はずの先住民のマレー人に、初めてナショナリズムが発露した瞬間だった。
一気に、様々なマレー人組織が活動を始めた。
1946年3月には、ダトー・オン・ビン・ジャファールDato Onn Bin Jaafarは、「統一マレー人国民組織」(UMNO : United Malay’s National Organization)を各地につくって、マレー人大衆とともに「マラヤ連合(案)」の廃棄を訴えた。
このマレー人団体の発足に触発されて、移民族だったインド人も、「マラヤ・インド人会議」(Malaya Indian Congress)を発足させていた。
それでも、1946年1月、イギリスから派遣されたマックマイケル(MacMichael)の下で、連邦マレー州4州、非連邦マレー州5州、さらに植民地マラッカ、ペナンの支配者が集まって、「マラヤ連合(案)」を決定する「マックマイケル条約」を締結した。
スルタン制の事実上の廃止、マレー人優遇策の廃止など様々な問題を孕みながら、1946年4月1日、1945年9月5日から始まったイギリス軍の「軍政」が終了し、今度はイギリス植民地の「民政」による統治機構「マラヤ連合」(Malayan Union)が発足した。
同時に、シンガポールには、イギリスの直轄植民地政府が設置されていた。
しかし各地で「マラヤ連合」反対運動が起こり、1946年7月には、マラヤ連合政府、藩王(スルタン)、統一マレー人国民組織(UMNO) の代表者を集めた会議が行われた。中でも最大の懸案は、市民権、特にマレー人の特殊的地位の保全だった。
こうしたマレー人大衆の抗議の中、1946年11月、早くも新しい「連邦協定案」への討議が始まった。
<「マラヤ連邦」とスルタン制、マレー人優遇の復活>
マレー人大衆やUMNOの激しい非難を受け、協議を進めていたイギリス植民地政府は、次なる統治機構「連邦協定案」をまとめ、1946年4月1日成立の「マラヤ連合」(Malayan Union)から僅か2年後の1948年1月31日、「連邦協定」(Federation of Malaya Agreement)が発効して、今度は英領マラヤに新しく「マラヤ連邦」(Federation of Malaya)が発足した。
「マラヤ連邦」は、「マラヤ連合」と同じマラヤ各州とペナン、マラッカの両植民地で構成されていたが、連邦の中央政府は、「マラヤ連合」の時のイギリス人総督(Governor)に代わって、イギリス人の高等弁務官(High Commissioner)が連邦行政議会、連邦立法議会を主宰して行政権を行使することとなった。
しかし「マラヤ連邦」が「マラヤ連合」に対し、大きく変化したのはスルタンの権限と、マレー人の特殊的地位の確保だった。
改めてマレー人の政治、経済上の優先的地位が認められた。
各州議会State Councilの議長はマレー人に、各州に居たイギリス人駐在官は文字通りの「顧問」になり、安全保障や連邦の財政といった連邦権限に属さない分野の行政権力は、藩王(スルタン)に帰すこととなった。
これは自治政府樹立への大きな一歩だった。
また1955年7月31日、アブドゥル・ラーマン Abdul Rahman首相が組閣した時は、イギリスの保護領は変わらないものの、外交・防衛以外の自治が認められていた。
さらに「マラヤ連合」では、マラヤ、シンガポールに生まれ、住む者は、マレー人、華人。インド人などの種族の如何を問わず、市民権が付与されるとされ「出生地主義」がとられたが、「マラヤ連邦」内では、マラヤ連邦内で出生した華僑でも、その両親共に連邦内で出生していなければ、生まれてきた子供は連邦市民となることはできないとされた。いわば「血統主義」の復活だった。
当時(1949年度の推定)連邦内の華僑の人口は、1,952,682人だったが、この規定では、連邦市民となれるのは375,000人程度で、およそ19%程度にしかならなかった。
この変更の背景には、マレー人のナショナリズムの高揚と、マラヤ共産党MCPの軍事部門のマレー民族解放軍(MNLA:Malayan National Liberation Army)が、イギリス軍や英連邦軍とゲリラ戦を展開しておりこれが激化することを懸念していたためとも言われている。