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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <33> まだ9日目 マラヤは再びイギリスの植民地に

<9日目ー10>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。今は「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。

 

<華僑のマレー人への報復>
敗戦による日本軍の撤退後、マレーは再びイギリスの植民地に戻ることになった。
しかし、それまでマレーを占領していた日本軍が戦闘停止となり、1945年9月にイギリス軍がマレーに戻って来るまでの権力の空白期には、戦時中活動していた山岳地帯から町に戻って来た「マラヤ人民抗日軍」(MPAJA:Malayan People’s Anti-Japanese Army)が、日本軍に協力したとしてマレー人に報復を行っていた。
MPAJAのメンバーは、殆どが華僑か華人だったのだ。

日本軍占領下では、マレー半島のジャングルに潜んでいたMPAJAは、戦後シンガポールに進軍した。終戦時には約7,000名、約8個大隊の規模に膨れ上がっていた。
MCPもクイーン街に本部を設立した。
まだイギリス軍が戻って来るまでの3週間、武装した彼らは事実上、マラヤの支配者だった。

ジャングルから出た彼らが始めたのは、戦時中の対日協力者や、華人ほど厳しく扱われていなかったマレー人への迫害だった。更には強請、脅迫、殺人などを引き起こした。
対日協力者と因縁をつけて人民裁判に掛けたり、ペラ州では数百人の華人がマレー人の家屋を焼き、マレー人56名を殺害する「ブコールの虐殺」が起きていた。
比較的華人の影響力が少なかったバトゥパハBatu PahatやムアルMuarでは、華人とマレー人の間で人種間の抗争が起きていた。
これが両民族間に亀裂を生じさせ、民族衝突の遠因のひとつになっていく。


<イギリス軍の上陸・軍政>
再占領後の臨時政府は、連合国軍ではなく、イギリス軍による軍政(BMA : British Military Administration)だった。
イギリス軍の復帰は、そのままイギリスによるマラヤの再植民地化だったのだ。
直接的にはインド兵を使っているので、華人が大多数のシンガポールでは様々なトラブルを引き起こしていた。

軍政の最初の取り組みは、日本軍の武装解除。そして対日協力者や戦犯の裁判と連合国軍捕虜の本国送還だった。
その次に、現地住民への民政再開だった。

マラヤでの戦犯裁判は、1946年5月3日に始まった東京の極東軍事裁判に先んじて、1946年1月に始まっていた。
フィリピンのマニラでは、2月23日、1944年9月26日にフィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官で、開戦時のマレー作戦では第25軍司令官だった山下奉文大将が絞首刑になっていた。

1942年2月に、ヴィクトリア・メモリアルホールで行われた、「シンガポール華僑粛清事件」の裁判(1947年3月10日~4月2日)では、当時の近衛師団長・西村琢磨中将、昭南警備隊長・河村参郎中将、第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐ら5人の憲兵隊将校が起訴され、河村警備隊長、大石憲兵隊長の2名が絞首刑、他は終身刑となった。
6月26日に、チャンギ刑務所で2名の死刑が執行された。

また華僑粛清を計画・主導したとみられる当時第25軍の参謀だった辻政信中佐(のち大佐)は、終戦時に第18方面軍の高級参謀として駐留していたバンコクで、戦犯を逃れるため僧に変装して失踪してしまった。
その後1948年5月に中国を経て帰国したが、なお国内で潜伏し、イギリス軍が1949年9月30日戦犯裁判終了をGHQに通知し、GHQが逮捕者リストから除外したため、起訴されなかった。
首謀者の一人である辻中佐の不在で、事件の真相が解明されないまま戦犯裁判が進み、多くの将兵が戦犯として処刑されていった。

マラヤは再びイギリスの植民地に

 

 

<マレーは再びイギリスの植民地に>
敗戦により日本軍の撤退後、マレーは再びイギリスの植民地に戻った。
1941年8月14日カナダ沖の大西洋上で、アメリカのルーズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相が発表した「大西洋憲章」(Atlantic Charter)は、1939年9月に始まっていた第二次大戦の終了後のアメリカとイギリスの目標を示した声明と言われたが、この「憲章」の8項目の3番目には「全ての人民が民族自決の権利を有する」と宣言しているにも関わらずだ。

イギリスは、他の植民地インドやミャンマーなどと比べて、マラヤの現状をこう見ていた。
マレー半島の先住民であるマレー人は、ナショナリズムの意識が低い。
更にマラヤには人口の過半数を占める多数民族が居らず、マレー人と移民である華僑はほぼ同数である。
そして、プランテーションによって開拓したゴムと錫は世界一の生産量をもっており、大戦で疲弊したイギリス経済には不可欠だと。
従っていまマラヤを手放す必要は無いと、判断したのだろう。

1945年9月にマレー半島にイギリス軍が戻ってくると、イギリスはマラヤ共産党MCPとマラヤ人民抗日軍MPAJAに武装解除を求めた。
しかしイギリス軍の「軍政」は、戦争中の協力関係からMCPの存在を黙認していたので、意外にも武装解除の交渉は進展して、11月15日には成立した。

MCPは、今は革命の高まりは不十分で、大衆訓練の時期。武装闘争の時期ではない。和平闘争なら英は改良に応ずるが、抗日軍MPAJAが解散せず、反帝国主義闘争を煽れば英は残酷に鎮圧するだろうとし、党の基礎が強大なら軍の解散は可で、軍保持に意味はないとしたライテクの方針に従っていた。

共産ゲリラ側は、特定の武器に限って供出し、逆に最大限の金銭的譲歩を引き出す方針だった。
12月1日、シンガポールはじめ、マラヤ各地、合計12か所で、MPAJAの解散、武器引き渡しが行われた。但し、MPAJAの武器の多くは秘匿された様だ。
約6,800名のゲリラには、除隊手当として、一人350マラヤ・ドルの現金と米1袋が与えられた。

一方MCPは、11月になるとシンガポールで「総労働連合」(GLU)という組織を設置して、下旬には港湾局やバス会社で、賃上げなどの労働条件改善を要求するストを組織し始める。
翌1946年1月には15万人参加のゼネストを予定し、「軍政」に揺さぶりを掛けていた。