<9日目ー9>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」で、マレーシアの歴史に触れている。
<日本の敗戦>
1944年7月のサイパン島陥落以後、米軍爆撃機による本土空襲により工業生産は壊滅的な打撃を受け、日本の継戦能力は急速に失われていった。
1945年(昭和20年)になると、5月7日には欧州でドイツが連合国軍に無条件降伏。7月17日にベルリン郊外のポツダムで、米国、英国、ソ連による会談が行われ、米国、英国、中華民国3国による「日本への降伏要求の最終宣言」である「ポツダム宣言」(Potsdam Declaration)が発っせられた。ソ連はこれに署名しなかった。
はじめ日本はこれを無視したが、8月6日広島、8月9日長崎に米軍による原子爆弾が投下され、更に同日未明、日ソ中立条約を一方的に廃棄したソ連軍が対日参戦し、満州に攻め込んできた。当時日本政府はソ連を仲介に連合国軍との講和を目論んでいたので、衝撃は大きかった。
8月10日の御前会議で、ポツダム宣言の受諾を決定する。
日本政府は、ポツダム宣言受諾を承認し、全日本軍が降伏する用意のあることを、午前8:00の海外向け放送で、日本語と英語で3回伝えた、更に中立国であったスイスとスウェーデンで、在外公使により交戦国に伝えられた。
しばらく交戦国からの反応がなかったが、8月12日になって、米国が日本のポツダム宣言受託の承認に対する、バーンズ国務長官(James Francis Byrnes)による回答を行った。
しかし国内では、同日、軍のトップである梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が、そろってポツダム宣言受諾反対を天皇に奏上しているような状況だった。
8月14日になって、御前会議で天皇自らの意向で「玉音放送」が録音され、翌8月15日正午にラジオ放送。
日本の全国民、全軍に、ポツダム宣言の受諾と、日本の敗戦を表明した。
同日、大本営は、陸軍の大陸命第1381号、海軍の大海令第47号で、積極侵攻の中止を命令。
翌16日には、大陸命第1382号、大海令第48号で、停戦交渉成立まで即時の戦闘停止を命令している。
8月17日、天皇の命により、皇族である鳩彦王が南京の支那派遣軍司令部へ、春仁王がサイゴンの南方軍司令部に派遣された。
<南方軍の対応と降伏交渉>
一方、東京から4,000Km以上離れた仏印のダラット(Da Lat)にあった南方軍司令部も、8月10日にはワシントンの放送を傍受して、日本政府や米国の反応を把握しつつあった。
南方軍は1944年11月に、総司令部をフィリピンのマニラから、仏印南部サイゴン(Sai Gon)東方の中部高原にあり、標高1475mで人造湖スアンフーン湖の畔で、気候清涼なダラットに移していた。
司令官の寺内寿一大将は、日本軍の敗戦が近いことを悟り、蘭領東インド(現インドネシア)の独立を急ぐため、独断で民族運動の指導者であったスカルノ(Sukarno)とハッタ(Mohammad Hatta)をダラットに招き、独立を許可。
更に余剰の日本車、兵器、資材を与える措置をとった。
8月14日、支那派遣軍(司令官は岡村寧次大将)から、「抗戦の継続」を訴える上奏電報が南方軍にも届けられたが、寺内大将はこれを却けた。
支那派遣軍は、「大陸打通作戦」(一号作戦)など、国民革命軍(蒋介石政権)相手に一方的な勝利を重ね、終戦時まで中国軍に対し優勢を保持していたためだった。
「大陸打通作戦」とは、日本本土や台湾への空爆を繰り返していた連合国軍の爆撃機の、発進基地だった中国大陸内の航空基地の占領と、連合国軍の通商破壊により日本の海上輸送が危機に瀕していたため、日本の勢力下にあった仏領インドシナへの陸路を拓くことを目的として、前年の4月17日から12月10日まで行った作戦だ。
投入総兵力50万人、戦車800両、馬匹7万頭、作戦距離2,400Kmに及ぶ、日本陸軍建軍以来史上最大と言われる作戦だった。
8月16日、ダラットに第7方面軍板垣征四郎大将、第3航空軍木下敏中将、第10方面艦隊司令官の福留繁海軍中将の他、大本営直轄方面軍の参謀長を招致して、進攻作戦の中止と停戦についての所要事項を命令。
翌8月18日、閑院宮春仁殿下をサイゴンに迎え、南方軍指揮官はポツダム宣言受諾に関する天皇の言質を拝聴した。
8月20日~21日に、大本営による日米初のマニラ会談が行われ、この中で、連合国軍の提示により、南方軍の指揮系統変更が要求された。
①北緯16度以北の仏印駐屯部隊(南方軍第18方面軍隷下の第38軍)は、支那派遣軍の指揮下に。
②ニューギニアの第18軍(南方軍第18方面軍隷下)を、ラバウルの第8方面軍(大本営直轄)下に。
③フィリピンの第14方面軍(南方軍隷下)を大本営直轄へ。
この結果、第14方面軍は米軍と、北部仏印部隊は中国の蒋介石軍(国民党軍)と、それぞれ停戦交渉を行うこととなった。
一方、南方軍のほぼ全域、つまりビルマ、タイ、アンダマン、ニコバル、マレー、シンガポール、北緯16度以南の仏領インドシナ、スマトラ、ジャワ、小スンダ列島、豪北、西部ニューギニアという東西5000Kmに及ぶ広大で、多くの日本軍の駐留する地域を担当したのが、マウントバッテン海軍大将を指揮官とする東南アジア連合軍最高司令官(SACSEA:The Supreme Allied Commander South East Asia)とイギリス軍だった。
SACSEAの兵力は英領インド軍含め約100万。米軍、中国軍を含めても130万人。
但し降伏を受け入れるために出動できる兵力は、その何分の一と少ない。
一方の南方軍は、陸軍613,000人、海軍117,000人の計73万人。民間人も53,000人。総計783,000人に及んでいた。
米軍の担当するフィリピンの第14方面軍は、10~12万人だったので、南方軍隷下の兵力がいかに大きいか分る。
SACSEAやイギリス軍は、進駐する(できる)英印軍の数十倍の日本軍が、果たして素直に、抵抗なく武装解除に応じるか大きな憂慮を抱えていた。
8月21日、SACSEAより南方軍に、ラングーンで全権を担う連合国軍の総参謀長と、南方軍の全権委任者との会見を要求してきた。
8月26、27日、南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将が、ラングーン(現ヤンゴン)のビルマ総督官邸で、SACSEAのブロウニング(Sir Frederick Browning)総参謀長と会談。
沼田中将は寺内司令官の武装解除要領などの説明を行うが、それが認められたか不明のまま、前日手交された暫定的降伏文書に調印してしまう。
この第3項には、「南方軍全軍は即時陸海軍の戦闘を停止する」ことを約諾すると記されていた。また、武器などの「破壊禁止」条項では、「損傷せず良好なる状態で引渡し」すべしと注意事項が付記されていた。
<イギリス軍の上陸>
それまで、マレー半島やシンガポール及びその周辺では、シンガポール陥落の1942年2月16日以降、「マラヤ人民抗日軍」MPAJAによるゲリラ活動以外、連合国軍の上陸などによる戦禍はなく、3年半にわたって日本の占領が続いていた。
9月5日になって、連合国軍がマラヤ再占領のため、シンガポール港に到着する。
この軍は、イギリス第14軍下のインド人将兵が殆どだった。
この中には、開戦劈頭、コタバルに上陸した侘美支隊を迎え撃った、英印軍第17ドグラ連隊(インド兵)の将兵も含まれていた。
1945年9月5日、正午、連合国軍最高司令官の第一号布告が発表された。
マラヤの諸地域には軍政が敷かれ、戦前の全ての法と慣習が尊重されるとされた。
こののち、連合国軍(のちにイギリス軍)による軍政は、1945年9月5日から1946年3月末まで続く。
日本の昭南島(シンガポール)内藤市長より、イギリス軍に市政の移管式が行われた。
シンガポールにいた約7万人の日本軍将兵は、7日までにジュロン、チャンギに集結させられ、武装解除された。
さらに様々な変更が行われた。
イギリス軍の軍政下で、マラヤ時間は9月6日に東京時間(Tokyo Standard Time)から切り離された。
これは1942年2月16日の日本占領と共に、マラヤの標準時は「東京時間」こと「日本標準時(UTC+9)」とリンクされていた。これが1945年9月13日から、「英領マラヤ標準時(British Malayan Standard Time)」の「UTC+7:30」に変更された。
また、日本占領中の通貨「軍票」は、9月5日以降価値を失った。
シンガポールの通りには、至る所に「BRITISH Come, NIPPON Go」の落書きが描かれていた。
戦前の華僑社会を支配していた「シンガポール中華総商会」や華僑たちは、連合国軍を青天白日旗(中国国民党の旗)やユニオンジャックで迎えた。
連合国軍は、8日までにシンガポール全島を掌握したのち、ジョホールから北上した。イギリス軍のマレー半島上陸は、9月9日、ジョホールにイギリス軍到着。
9月12日、東南アジア全域に広がっていた日本軍の各代表が、シンガポールに集められ、連合国軍に対する正式な降伏式がミューニシバル・ビルで行われた。
当時マラヤ全体には、13万人以上の日本軍がいた。1941年2月16日以降は、一部ゲリラによる戦闘のみで、米英軍の上陸などない、戦闘がない状態だったので、まだ武装状態だった。
彼らに戦争が終わったことを知らせ、武装解除を説得する必要があったのだ。
連合国軍側は連合軍東南アジア軍司令部(SACSEA)の最高司令官マウントバッテン海軍大将はじめ各司令官。
連合国軍は、日本側へ、南方軍総司令官元帥寺内寿一大将、第7方面軍司令官板垣征四郎大将、緬甸(ビルマ)方面軍司令官木村兵太郎中将、第18方面軍司令官中村明人中将、第3航空軍司令官の木下敏中将、第10方面艦隊司令官の福留繁海軍中将、そして8月28日ラングーン(現ヤンゴン)で降伏条件の交渉を行ってきた南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将の参加を強く求めたが、寺内寿一大将が当時病床にあったことから、板垣征四郎大将を代理とすることで了解を得て、フィリピン(第14方面軍)、ビルマ(緬甸方面軍)、タイ(第18方面軍)、蘭領東インドなど諸方面の軍司令官7名がこれに臨んだ。
第7方面軍は、南方軍隷下で、1944年4月25日新たに編成されシンガポール方面の作戦・防衛を担当した方面軍だ。隷下兵団は、第16軍(ジャワ島ジャカルタ)、第25軍(スマトラ島ブキティンギ)、第29軍(マレー半島タイピン)。
<敗戦後、マレーに残った日本人たち>
旧厚生省援護局の調べでは、1945年(昭和20年)8月15日時点でアジア各地の日本軍の兵数は、陸軍が2,963,300名、海軍が381,800名、合計3,345,100名だった。
このうち満州、中国(香港含む)で陸軍が1,719,700名、海軍は70,700名で、特に陸軍では陸軍全体の58%もの兵数がいた。
一方南方各地では、ビルマ(含むインド現ミャンマー)で陸軍70,400名、海軍1,100名、タイで陸軍106,000名、海軍1,500名、仏領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)では陸軍90,400名、海軍7,800名、マラヤ・シンガポールでは陸軍84,800名、海軍49,900名、蘭領東インド(現インドネシア)では陸軍235,800名、海軍55,500名、フィリピンで陸軍97,300名、海軍29,900名、太平洋諸島では陸軍48,600名、海軍58,300名の将兵が残っていた。
南方全体では陸軍733,300名(陸軍全体の約25%)、海軍204,000名(海軍全体の約53%)、合計937,300名に上った。
終戦後、アジア各地に居た日本軍の軍人・軍属が約330万人、民間人が約330万人、合計660万人もの人々が、日本に引き揚げることとなった。
マライ半島・シンガポールで引揚げをすることになったのは、軍隊だけではなかった。
戦前からこの地域で活動していた邦人企業は、主たるものだけでも100社以上あった。
鉄鉱石の採掘は石原産業、飯塚鉄鉱、NKK 、日鉄鉱業などの大手採掘企業。
石原産業は戦前日本に送り出した鉄鉱石は、1000万トン以上に上った。第2位の飯塚鉄鉱も数百万トン。日鉄鉱業は、マライ東海岸のクランタン州テマンガン(Temangan)に、日本船に直接鉱石を積み込める設備を新設していた。
このブログで何度も登場する、金子光晴の「マレー・蘭印紀行」によれば、シンガポールから来た金子が、「ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に」投宿したマレー半島西海岸のバト・パハ(Batu Pahat)についてこんな記述がある。
「ゴム不況のどん底にある今、この街はわずかに鉄山で活気づいている」バト・パハ河沿いに引き上げられた荷船トンカンは、「スリメダンの鉄山と沖のあいだを鉄の鉱石を積んでは往復する荷船である」
スリメダン鉱山は、ジョホール州バト・パハにある鉄鉱山。石原産業の創業者である石原廣一郎が開発した鉱山だ。
次いでゴム栽培では、マライ中南部に広大な農園を保有し、年間5万トンの生ゴムを算出し、主要市場であるニューヨークやロンドンの市場に輸出していた。
主な企業は久原財閥系の三五公司。昭和ゴム、熱帯産業、三井農林などだ。
前出の「マレー・蘭印紀行」には、以下の記述がみられる。
バト・パハの町は、「二十五年以前まで(中略)ルマ・バツと称して、渺茫たる大河の岸に、ニッパ椰子に埋もれた、家数五六の小部落に過ぎなかった」ものが、「三五公司のゴム園開発によって」「その根拠地として」「日本人の勢力下に発展」し、今は人口は4万人の町になっている、と。
これら企業の資産は、終戦時に、全部敵国資産としてイギリスに没収されてしまった。
戦後、これらの在外資産は、全て華僑系企業に再取得されて、戦後華僑財閥の肥大化をもたらす要因ともなったと言われている。
<武装解除された日本兵>
1945年8月の敗戦後、南方戦線の各地マラヤ、ジャワ、スマトラ、ビルマ(現ミャンマー)に残った日本兵は、武装解除され、1945年10月から、シンガポールの沖合に浮かぶリオ諸島のレンパン島(Pulau Rempang)、ガラン島(Pulau Galang)に移送され、日本本土への帰還を待つことになった。
マラヤ、シンガポールの将兵は、10月初めからレンパン島へ移送され、スマトラ、ジャワの将兵は主にガラン島だったらしい。
約10万人もがこの島で、殆ど食料の支給のない自給自足の状態で、約1年もの間抑留されたと言われている。
マレー半島で終戦を迎えた日本軍兵士は、武装解除され半島を南下。南部ジョホール州のほぼ真ん中にあるクルアン(Kluan)の検問所に着く。
バットゥ・パハ(Batu Paha)から南東に110Km、クアラルンプールから南東へ215Kmの地で、市内をメンキボ川(Meng Kibol River)が流れている。
ここはクルアン飛行場があるジョホール州最大の要衝で、戦争中は第25軍が1月25日にここを急襲して占領。こののちは本営をクアラルンプールからクルアンに移している。
さらにクルアン飛行場からは、1942年2月14日のパレンバン空挺作戦機の一部など、シンガポール、スマトラ島への爆撃部隊が出撃していた。
クルアンに集められた日本兵は、此処で戦争犯罪人か否かの個人別の検問を受けた。
無罪であれば通過の番号入りの紙切れを貰って、「ホワイトキャンプ」に収容された。
疑いのあるものは「グレーキャンプ」に留め置かれ、更に審議を受ける。
戦争犯罪容疑者とみなされた者は、鉄条網に囲まれ、四隅に監視所のる「ブラックキャンプ」に入れられた。
ここで無事通過の番号札を貰った兵隊たちは、更に南下してシンガポールから60Km沖合のレンパン島に機帆船で送られた。
レンパン島の大きさは約140平方Km、日本では長崎県の壱岐島や北海道の奥尻島位の大きさの様だ。
マレー半島からジョホール水道を渡り、シンガポールの激戦地ブキテマ(Bukit Timah 「錫の丘」)、英軍との降伏交渉を行ったフォードの工場跡を右手に見て、シンガポール駅からケッペル波止場(Keppel Harbour)へ。
ここから出港して2時間の先だった。
島には「千鳥港」と呼ばれた、丸太で作った仮設桟橋を渡って上陸。この後、概ね1年後の日本への復員迄、原始生活に近い環境で過ごしたらしい。
浜辺に丸太の柱を立て、ニッパ椰子で葺いた小屋に、干し草を敷いた床に横たわり、食料は不定期に配給されるものを千鳥港に受領に行くとき以外は、畑を荒らす猪を追い払いながら、タピオカ、茄子、胡瓜、サツマイモを育てて自給した。
栄養失調、疫病と戦いながら、内地送還の日を待ち続けた。
昭和21年4月ごろから、リバティ船の回航によって、内地(日本)への復員輸送が進められていた。
リバティ船とは、米国で量産された人員輸送用の5,000~1万トン級の船のことだ。
そんな中、昭和21年4月19日、連合国軍は南方軍に10万名の作業隊の残置を命令してきた。
これは「日本軍軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会を得シメラルべシ」と記された「ポツダム宣言」第9項に、明らかに反した命令だった。
連合国軍は進駐以来、各都市ごとに戦災復旧作業の名目で、捕虜となった日本軍に多くの労役を強制していたのだ。
南方軍は撤回を要求したが、7月1日、やむなくビルマ(現ミャンマー)に35,000名、マラヤに22,800名、シンガポールに24,200名、ジャワに9,000名、シャム(現タイ)に9,000名の将兵が残置されることになった。
日本では、戦後旧ソ連軍によって日本兵や民間人がシベリアに強制連行され、強制労働をさせられた「シベリア抑留」が有名だが、南方地域ではイギリスやオランダなども同様の行為を行っていたのだ。
残置作業隊から逃れたある部隊は、6月下旬、火炎樹の花が咲くころ、復員準備のため衣類、飯盒、雑嚢、毛布、携帯天幕、時折配給された連合国軍のレーションの空き缶で作った食器などを用意。
桟橋から大発(大発動機艇 陸軍の上陸用舟艇)に分乗して沖に停泊する1万トン位の大型のリバティ船に乗り移る。
この時タラップは無く、縄梯子が4か所降ろされているだけだったと。
ここを瘦せ衰えた身体にいっぱいの荷物を背負った兵隊が、必死の思いで登って行ったのだろう。
この部隊は1946年(昭和21年)6月14日に出航。
15日間の航海の後、7月1日豊後水道を通って広島県宇品港に入港した。しかし検疫準備のためすぐには上陸できず船に留まったが、上陸後は検疫、そして召集解除。
そのとき広島に原爆が投下されたのを、初めて知ったらしい。
1万名以上の遺骨を日本人墓地に残し、1945年11月下旬、最初の引揚げ船が日本に向かった後、順次引揚は続き、1948年までに帰国が完了した。