<9日目ー8>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。今日は、「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<日本占領下の抵抗運動とMPAJA>
1941年12月に日本軍がマレー半島に侵攻すると、英国植民地政府はシンガポールのチャンギ刑務所に収監されていた約200名のマラヤ共産党(MCP)メンバーを解放し、英軍の施設でゲリラ戦の訓練を施した後、MCPの軍事組織「マラヤ人民抗日軍」MPAJAとして半島内部に送り込み、南下してくる日本軍の後方に潜伏させた。
彼らは、中国人、マレー人、インド人を表す三ツ星のバッジを付けていたため、「三ツ星軍」とも呼ばれた。ただし、構成メンバーは殆どが華僑・華人だった。
彼らは山中に身をひそめ、食料などの補給はジャングルの縁に住む華人系住民や、共産党シンパに頼っていた。
1942年、シンガポールで連合国軍のジュロング、ブキテマの防衛ラインが破れた2月12日、イギリス軍直属の華僑部隊として「英軍野戦保安隊136部隊」が結成され、マレー半島に送り込まれた。
彼らもジャングルに潜み、マラヤ人民抗日軍MPAJAを指導し、空輸によって兵器や援助物資の支援を行った。本部はインドのニューデリー、のちにこれもイギリス領であるセイロン(Ceylon 現スリランカSri Lanka)のキャンディ(Kandy)に移った。
キャンディはセイロン島のほぼ中央部にある、シンハラ人のキャンディ王国最後の都のあった場所だ。
戦後の1945年9月には、独立を目指すビルマ(現ミャンマー)のアウン・サンが、1945年3月27日占領中の日本軍に対し反乱を起こした旧ビルマ国民軍(BNA)が改名した愛国ビルマ軍(PBF:Patriot Burmaes Forces)を、イギリス領に復帰したビルマ軍に編入するよう交渉を行った「キャンディ会議」の場所にもなった場所だ。
因みに、現在スリランカの人口の70%を占めるシンハラ人(Shinhalese)は、先住民であったドラヴィダ人(Dravidian)とインド・アーリア人(Indo-Aryan)の混合した民族で、殆どが仏教徒だが、1983年から2009年まで独立を目指して内戦を行っていたスリランカ北部の「タミール・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)はインド南部と同じタミール人(Tamil)で、ドラヴィダ人であり、ヒンドゥー教徒だ。
シンハラ人の「シンハラ」とは「ライオン」の意味なので、LTTEは「虎」を名乗っていた。
戦前からマレー半島にプランテーションの働き手として移民してきたのは、インドでも南部のタミール人が殆どだった。
<バトゥー洞窟事件>
シンガポールが陥落し、マラヤ全土が日本軍の占領下におかれていた1942年(昭和17年)9月1日、「バトゥー洞窟事件Batu Caves Incident」が起きた。
本件については、北山敏和氏の興味深い文章「鉄道いまむかし」によれば以下だ。
バトゥー洞窟(Batu Caves 馬風洞)は、セランゴール(Selangor)州、クアラルンプール(KL)から約30分の場所にある、ヒンドゥー教の聖地であり、いまも年間160万人が訪れる有名な観光地だ。
この場所で、陰惨な事件が起きた。
コミンテルン極東支部の直轄下で、1930年にシンガポールで設立されたマラヤ共産党 MCPの、指導者である総書記はベトナム人の莱特ライテクだった。
9月1日の払暁、非合法化で地下に潜伏していた莱特(ライテクLai Teck))はじめマラヤ共産党MCPの上級幹部たちは、首都KLから13Km離れた鍾乳洞のバトゥー洞窟の山麓にあるゴム園に集まり、今後の活動方針を討議する中央委員会を開いていた。
1942年2月15日にシンガポールが陥落し、連合国軍降伏後、イギリス軍はインド南部に軍事訓練場を設け、日本軍への反攻を企てていた。
5月に、デーヴィス率いる136部隊が、ペラ州のヤガリに上陸。ビト山に基地を作った。
共産ゲリラもジャングルに潜み、シンガポールのMCP幹部もマレー半島に送り込まれていた。
MCPと136部隊、双方の幹部が集まり、今後の闘争方針を討議するために集まっていたのだ。
そこに、突如日本軍が踏み込んで来た。
日本軍は、憲兵隊本部と特別警備部隊だった。
憲兵は50数名、警備部隊は歩兵一個大隊(約1,000名)、山砲一個中隊。第5師団の参謀が作戦の指揮を執っていた。
1942年9月1日、日本軍は05:00に突入してきた。
戦時下でMCPメンバーも全員武装しているので、約30分に及ぶ銃撃戦の末、MCP幹部29名射殺、15名逮捕。難を逃れたのは、総書記の莱特ライテクと一部の幹部のみだった。日本側も、死者1名、負傷3名を出した。
没収されたMCP側の武器は、機関銃×1、自動小銃×2、ライフル×5,拳銃×6、手榴弾×23,各種爆薬×613発、印刷機、書類等だった。
25名の幹部の首は切り落とされ、バトゥー・ロード(現トゥアンク・アブドゥル・ラーマン通り)など、クアラルンプール(KL)の市内5か所で衆目に晒された。
当時のマラヤ共産党員間の連絡方法は、無線機を持たず、各ゲリラ部隊には秘密連絡所が置かれ、その連絡所が次々に中継しながら書類などを運んでいたらしい。
シンガポールからの書類は、現地の連絡員がジョホールの連絡員に渡し、ジョホールの連絡員が人伝でにマラッカの人に渡すというやり方だった。
幹部間の対面も、お互いの住所が分かっていないので、必ずどこかの連絡員を仲介に頼んで、案内して貰っていた。
このように情報が個々に分断されて保持されている警戒の厳重な中、何故幹部たちの集まる大会の情報が漏れたのか。
何故日本軍は、極秘の会議の日時、場所が分かったのか。
さらに何故MCPの幹部を、一挙に捕縛することが出来たのか。
何故、総書記の莱特ライテクは無事だったのか。