<9日目ー7>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<連合国軍捕虜>
1942年5月以降、多くの捕虜はタイとビルマ(現ミャンマー)間に建設中の「泰緬鉄道」の建設に動員された。
タイやビルマ(ミャンマー)へ、1台に27名もの捕虜を詰め込んだトラックで、4日間も輸送された。また現地では下痢、赤痢、マラリア、脚気、十二指腸虫、コレラなどが蔓延し、十分な栄養や被服の手当のないまま多くの捕虜が亡くなった。
また一部の捕虜は日本本土に送られ、炭坑や工場労働に動員された。
1942年9月からは、シンガポールのチャンギ刑務所やその他のマラヤの捕虜収容所は、第25軍の直接管理から、陸軍省俘虜情報局の管轄に移り、福栄真平少将がマライの所長となった。
この後、捕虜収容所(日本名は俘虜収容所)から脱走が相次いだため、捕虜15,000名を収容人数900名の英軍旧兵舎に押し込んで、今後脱走を企てない旨の「捕虜宣言」を強要する「セララン兵営事件」などが起きている。
一方インド兵捕虜は、「F機関」によってインド国民軍(Indian National Army)に編入された。
1943年、当時ドイツに亡命中だった著名なインド独立運動家のスパス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)を迎え、シンガポールで自由インド仮政府とインド国民軍が発足。
1944年3月に始まったビルマ(現ミャンマー)戦線に於ける、「インパール作戦」(ウ号作戦)に参加している。
インド解放の旗印のもと、日本軍第15軍と共に、英領インド北東部マ二プル州(Manipur)の州都であるインパール(Imphal)に向け、チンドウィン河(Chindwin)を越えて進軍。インパール平原まで肉薄したが、兵站不足を突かれ、敗退した。
参加したインド国民軍は約6,000名だったが、退却中チンドウィン河まで辿り着いたのは、約2,600名。戦死400名、餓死・戦病死約1,500名を出し、インド国民軍は壊滅した。
この時、この無謀な計画を立て、実行しながら、敗退時には現地の兵を残し、いち早く退却した第15軍司令官は、マレー作戦時の第18師団長だった牟田口廉也中将だった。
<日本軍のマラヤ統治>
日本軍の駐屯地は、シンガポールに本部を置いた陸軍第25軍が、1944年1月までこの地に駐屯。以後は、第29軍第94歩兵師団が終戦までペラ州タイピンに本部を置いていた。
日本軍のマラヤ統治は、1941年11月「南方軍」(総軍)の作成した「南方占領地行政実施要領」に依った。
一方、1943年4月からのマラヤの軍政は、マライ軍政監部を新設してこれにあたった。総監は第25軍の参謀長、総務部長は渡辺渡大佐が執行官となっていた。
イギリスの統治に倣い、「海峡植民地」は日本軍の直轄として、シンガポールは「昭南島」と改名し、特別市を設置。
ペナンは「東條島」、マラヤは「馬来」と改名した。
マレー連合州とジョホールは、スルタンの統治下で日本の自治保護国とした。
更に、1909年の英泰条約で、イギリスに割譲させられていた北部4州は、タイ王国(1939年までの国名は「シャムSiam」)の統治に返還された。
日本軍の統治は、シンガポールの華僑をはじめとする中国の重慶軍、共産軍いずれをも支援する中国人には厳しく扱い、マレー人とインド人は日本の統治に協力的だったので穏やかに扱われたらしい。
行政では、日本と台湾の文民が、マラヤの公務員と警察を率いていた。マラヤの公務員は、戦前と同じだった。
インド人、マレー人には募兵、徴兵も行われていた。
社会的には、マレー人の「マレー人奉公会」、インド人の「独立連盟」、華人の「海外中国人連合」を組織させ、お互いに日本軍への貢献度の競争心を煽っていたらしい。
経済では、マラヤは従来、ゴムなどの商品作物を海外市場で売り、製造品を海外から輸入していた。
しかし、日本占領下となり、海外市場から締め出しを受け、出荷が出来なくなった。
更に、欧米人(ユーラシア人)の経営するゴムのプランテーションや、錫などの鉱山も閉鎖された。
このため、食料や医薬品の輸入が出来なくなり、不足を来してきた。
もともとマラヤは、丘陵地帯が多く、稲作には適していない。このため従来から輸入米に頼っていたが、これが買えなくなり、タピオカやルートクロップなどを食べざるを得なくなっていた。
また医薬品の欠乏は深刻で、マラリヤ、肺炎、赤痢、下痢、皮膚の潰瘍や性病なども蔓延してきた。マラリヤの特効薬であるキニーネも、1944年までには無くなって仕舞った。
海外への輸出が出来ず、経済は不況に陥り税収も無くなったため、日本占領下では金券、紙幣、軍票を発行していたが、裏付けの乏しい紙幣の乱発でインフレーションが進行していた。
海軍は、ペナンに潜水艦基地を置いていた。
第6艦隊第8潜水戦隊が、1942年2月から駐屯していた。
ここは1943年初頭から、同盟国であるドイツとイタリアの潜水艦も寄港し、4月にはドイツのUボート基地が建設され、インド洋からアフリカ沿岸に到る海域での作戦活動を行っていた。
その後、1944年に入ってペナン基地が連合国軍の爆撃範囲に入ったため、日本海軍は潜水艦をペナンから引き揚げたが、ドイツ海軍は1944年12月まで残留して、その後シンガポールへ撤退した。
1945年5月7日ドイツが降伏すると、残った潜水艦は日本軍に接収され、ドイツの水兵はマレー半島西海岸のバトパハ(Bato Paha)に移動。
敗戦後は、乗組員はシンガポールのチャンギ刑務所に投獄された。