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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <27> まだまだまだ9日目 日本軍の上陸 

<9日目ー4
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。

<侘美支隊の敵前上陸>
1941年(昭和16年)12月8日午前02:15、日本陸軍第25軍第18師団(通称号「菊」)隷下の、九州は久留米の歩兵第56聯隊と山砲兵一個大隊を基幹とする侘美支隊(侘美浩少将)約5,500名が、英領マレー北部のコタバル(Kota Bharu)に敵前上陸する。

コタバルはクランタン州Kelantan。ここは1909年の「英泰条約」(Anglo-Siamese Treaty)によって、クダ・スルタン国(Kedah Sultanate)やKerajaan Pataniがイギリスに割譲されてしまったパタニ王国の地だ。
この地の12月は北東モンスーンの影響で雨季にあたり、当日も2mを超す高い波が次々と上陸予定地のサバック海岸に押し寄せていた。

12月4日に、当時日本軍が占領中だった中国海南島の三亜港を出港した輸送船団の裡、淡路島丸はじめ3隻が侘美支隊の兵を乗せてコタバル沖に到着した。
日本軍が上陸しようとしたとき、マレー半島には連合国軍司令官アーサー・パーシヴァル中将(Arthur Ernest Percival)以下、イギリス領インド帝国兵、イギリス本国のイギリス軍、英連邦のオーストラリア軍など約4個師団規模の85,000人がいたと言われている。
約7万人の戦闘部隊、英印軍17,英軍13、オーストラリア軍6、マレー軍2の38個の歩兵大隊が守備していた。
一方の日本軍は、第25軍の約35,000人だった。

マレー半島東岸、タイ国境に近いコタバル

北東モンスーンの吹き荒れるサバック海岸



午前1:35、20艘の上陸用の舟艇に移乗した第一次上陸部隊は、パンタイ・ダサール・サバ(Pantai Sabak)の海岸に向け発進した。その海岸近くに、第一目標であるコタバルの飛行場が控えていた。
同時に、日本の護衛艦隊も海岸一帯に援護射撃を開始した。

当時コタバル付近の守備についていた連合国軍は、東北部マレー軍で、イギリス第8旅団(第10バルチ連隊第2大隊、第17ドグラ連隊第3大隊、第13国境軍第1大隊)の計約6,000名だった。
主に英領インドのインド兵が主力の部隊と、イギリス本国のイギリス兵だった。
連合国軍とは、英領インド(イギリス領インド帝国 British Raj)は実質イギリスの植民地だったが、建前上は独立国だったからだ。

連合国軍も、日本軍のマレー半島への上陸地点をこの付近と想定して、ここからタイ国境に至る海岸線には、10個以上のカンポンKampong(村)に、21個のトーチカが設けられ、海岸線から100m以内に鉄条網が張り巡らされ、地雷も多数埋設されていた。

夜明け前の02:15、上陸開始。
海岸に設けられたトーチカからは、英印軍第17ドグラ連隊(インド兵)による機銃掃射が始まった。
堪らず日本兵は舟艇から飛び降りるが、多くは胸まで海中に没して、荒波に砂浜まで打ち上げられるか、引き波に攫われて再び沖合に運び去られるなど、上陸は困難を極めた。
波打ち際で海に浸かったまま、イギリス軍の砲弾と機銃掃射の中を、念仏を唱えながら進んだものもあるほど凄惨だった。

その間、コタバルの飛行場から飛び立ったハドソン偵察爆撃機や、近隣の飛行場から飛来したヴィッカース・ビルデビースト雷撃機が、低空爆撃と機銃掃射で3隻の輸送船や上陸部隊を攻撃。淡路丸は大炎上した。

この上陸戦で、日本の第一次上陸部隊は戦死320名、戦傷538名を出しながら、トーチカのインド人部隊を全滅させ、100名を捕虜として上陸を果たした。
03:35、侘美支隊長は「〇二一五第一回上陸成功」と、第25軍に打電した。

800名以上の死傷者を出す犠牲を払いながら、ようやく8日夜半22:00にコタバルの飛行場(現スルタン・イスマイル・プトラ空港Sultan Ismail Petra)を、9日正午にコタバル市街を占領した。

侘美支隊の上陸正面の地形

 

 

上陸時の部隊配置

 

上陸後の戦闘経過



<開戦前夜 対日制裁と南方作戦「あ号作戦」>
当時米英中蘭は、1938年対日経済制裁(ABCD包囲網)に動いていた。

1939年8月23日の独ソ不可侵条約とその秘密協定に基づいて、9月1日ドイツ軍はポーランドに侵攻し欧州に戦端が開かれていた。
9月17日には、秘密協定に基づいてソ連もポーランドに侵攻し、同国を独ソで2分割していた。
その後ドイツ軍はイギリスとフランスに対し戦端を開き、1940年にはデンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスを攻略、5月末には英仏軍をフランス最北端のダンケルクの海岸まで追い詰めていた。

それまで欧州戦線への参戦をためらっていたアメリカは、アジアにおいても、中国大陸へ侵攻する日本が、1921年のワシントン会議で定めた中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」の合意を無視しているばかりか、中国に於けるアメリカの権益をも犯しており、1940年9月27日の「日独伊三国同盟」の締結で、ドイツやイタリアと同じファシズム国家だとの認識を強めていた。
しかし欧州戦線への参戦を念頭に置けば、もしアジアで戦端を開けば二正面作戦(tow-front war)を強いられることになる。そのため当面は日本へは経済制裁を行いつつ、欧州戦線の成り行きを注視していた。

1940年(昭和15年)9月30日には、アメリカの鉄鋼・鉄屑の対日輸出が禁止された。
当時の日本の鉄類の輸入は、アメリカからが全体の約70%。中国16%、その他14%だった。
1940年(昭和15年)9月に、日本軍(第5師団)がいわゆる「援蒋ルート」(仏印ルート)遮断のため、フランス領インドシナ(「仏印 」現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の北部(ハノイHa Noi)に進駐した。
その最中の1941年(昭和16年)6月22日に、突如ドイツ軍がソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。

ドイツ自身が二正面作戦を始めてしまったので、イギリスは救われ、相対的にドイツの力が弱くなった。このため、アメリカはアジアにおいても開戦に対応できると判断したのかもしれない。
さらに1941年(昭和16年)7月28日、日本軍(第25軍)は仏印の南部(サイゴン Sai Gon 現ホーチミン Ho Chi Minh)に進駐した。これによって、フィリピンやマレー半島は直接日本軍機の空襲圏内に入ることになった。
この南部仏印(ベトナム南部地域)への進駐が、あからさまな「南進政策」の表れであると同時に、アメリカの植民地フィリピンへの直接的な脅威になったことで、アメリカの外交政策が対日開戦も辞さずとの強硬姿勢に転換されたのかもしれない。

この日本軍の南部仏印進駐で、日本の南進政策が露骨になってきたと感じた東南アジアに植民地をもっていた欧米諸国は、経済制裁をさらに強化する。
当時イギリスはインド、ビルマ、マレーを、アメリカはフィリピンを、オランダは蘭領東インド(「蘭印」現インドネシア)を植民地としていた。

7月26日、米英は日本資産の凍結を通告。
8月1日、アメリカは対日石油禁輸措置を発動。オランダ領東インド(植民地)政府も日本との石油協定を破棄した。
当時の日本の石油の対アメリカ依存度は、全体の約77%。その他はオランダ領東インド(現インドネシア)の14%、その他9%で、まさにアメリカの対日石油禁輸措置は日本の死活問題だった。

この結果、東南アジア、特に蘭印の天然資源を獲得するための「南進政策」をとることが必須と考えられるようになった。
特に蘭印の石油資源獲得は最重要目標だった。
南方の石油は、英領ボルネオのミリMiri、蘭領ボルネオのタラカンTarakan、バリクパパンBalikpapan、北部スマトラ、東部ジャワにあったが、特に南部スマトラのパレンバンPalembangは重要だった。
パレンバンの石油は年産約400万㎘で、これは日本の年間石油消費量にほぼ匹敵する量だったのだ。

アメリカの対日制裁に対し、1941年(昭和16年)10月18日に成立した東条内閣は、対英米蘭開戦も辞さずとして、10月29日までに陸海軍中央統帥部で「南方作戦」の作戦計画の作成を完了していた。
呼称は、「あ号作戦」(陸海軍中央統帥部の呼称)。海軍は「第一段作戦」と呼称。対英米蘭戦(日本側の呼称「大東亜戦争」)開戦時に於ける、日本軍の進攻作戦だ。

作戦の目的は、国力造成上の観点から、スマトラ、ジャワ、ボルネオ(カリマンタン)、セレベス(スラウェジ)、マレーなどの重要資源地帯を攻略確保して、米英に依存することなく、自立できる経済圏の確立を目指すというものだった。
攻撃目標は、フィリピン、マレー、ジャワで、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標としていた。

しかし使用できる兵力は限られていた。
当時全陸軍51個師団の裡、殆どは中国大陸や満州、朝鮮にあったため、「南方作戦」で使用できるのは僅か11個師団しかなかったのだ。
そのため、まずイギリスの東洋支配の要であるシンガポールと英領マレー、米領フィリピンにある米国の航空戦力を同時攻撃して倒したあと、蘭領ジャワ(蘭領東インド)を攻略する二段攻撃作戦となっていた。
しかし投入できる兵力が限られているため、フィリピン作戦(M作戦)を担当の第14軍隷下で、1941年12月22日フィリピン・ルソン島のリンガエン湾に上陸した第48師団(通称号「海」)などは、1942年1月2日「OPEN CITY(無防備都市)」を宣言していたマニラを占領後、返す刀で今度は蘭印作戦(H作戦)を担当する第16軍の戦闘序列に編入され、3月1日にはジャワ島東部スラバヤに上陸しているほどだった。