歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <26> まだまだ9日目 イギリス植民地下のマラヤの人々

<9日目ー3
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。

<植民地下のマラヤの人々>
この頃、イギリス植民地下のマレー半島を旅行していた、前述した金子光晴の「マレー蘭印紀行」(1940年昭和15年)には、当時の人々の様子が描かれている。

「まったく、馬来人(マレー人)といえば、全部が全部、細民といってもいい。貧農か、小使(ジョンゴス)か、園丁(コボン)か、自動車の運転手か、出世がしらがせいぜい、巡査か、郵便局の雇員である。」

「ゴムの好況時代、このへんの百姓たちは、しごとの片手間に植えつけたゴム苗でゴム乳を採り、もよりの工場で精製してもらって、市場に出して金に換える手間ひまかからぬしごとの味をしめた。(中略)ゴムの悲況が来たとき、かれらは無一物になっ」た。

「ゴム相場の上下によるくり返しで、解雇された苦力たちが氾濫する。百姓から、苦力へ、浮浪人へと、かれらは三段に顛落(てんらく)の途を辿る。」
「借財の重荷を背負って一家は離散し、女たちはながれ、男共は前借で身を売り、籐(ロタン)と、私牢の待っている蘭領の奥地開拓につれられていく。」

「百姓たちのゴム園は、抵当流れの形で、印度人の金貸業チッテの手に収まってゆく。強欲非道でならした猶太人(ユダヤ人)も、奸譎(かんけつ)なベンガル商人も、アラビア人も土民に鳥金を貸しつけて太ってゆくチッテのやりくちには三舎を避けるという。」
「三舎を避ける」とは、相手を恐れるの意味だ。
そのチッテも、「しかしこのごろの大不況、ゴムの底値までは目が届かなかっただろう。巨万の金のかたにとったゴム園が、二束三文の時価に下落し、地代はかさむ、手入れは要るで、自縄自縛に陥っているのも少ないという」

「印度人の金貸業チッテ」と描かれた「チェッティアール」とは、南インドのタミル・ナードゥ州では ナガラッタールとも呼ばれ、伝統的職業が金貸しであるカースト集団だ。
マレーシアでも金貸し業の他、商人や銀行員としても活躍している。彼らは18世紀後半にマラッカとペナンに進出してきた。

こんな有様だった。

金子光晴「マレー蘭印紀行」



<反英・反植民地の動き 華僑・華人>
一方、植民地支配に反対する人々もいた。
1920年5月シンガポールで、華僑を中心に「南洋共産党」(South Seas Communist Party)が結成された。
メンバーは殆どが華僑・華人で、無宗教を唱える共産主義に対し、信仰心の厚いムスリムのマレー人は「冷淡」、短期間の出稼ぎの意識の強かったインド人は「無関心」だったと言われている。

大多数のマレー人は、人口も経済力も急激に大きくなりつつある中国人移民に対抗するため、むしろイギリスを頼りにしていた。
これは英領インドに於けるムスリムが、巨大なヒンドゥー教徒に対抗するため、植民地支配者であったイギリス人を頼っていたのと似ている。

対照的に、「共産主義」は中国人に急速に浸透していった。
しかし労働争議やストライキを組織するなどの活動の結果、「南洋共産党」は英植民地政府の取締りに遭い、幹部は中国へ送還されたため次第に弱体化していった。

そんな中、1929年に開かれたコミンテルン(Comintern)の第2回代表者会議で、仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)でインドシナ共産党が設立され、マラヤの南洋共産党をコミンテルン極東支部の直轄下の組織として、「マラヤ共産党」(MCP : Malayan Communist Party)に改編するよう指示された。
目的は、マラヤ、タイ、インドネシアの活動をコミンテルンが統括するためだったようだ。

コミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナル)とは、革命が起きたばかりのソ連(ソビエト社会主義共和国連邦1917~1991年、現在のロシア)で、1919年3月にレーニン(V.I.Lenin)らが創設した国際共産主義運動の指導組織だ。
当初は世界革命の実現を目指す組織として、各国の革命運動を支援していたが、レーニンの死後、指導者になったスターリン(L.V.Stalin)が1924年に唱え、1928年のコミンテルン第六回大会で採択された「一国社会主義論」により、各国の共産党がソ連の外交政策を支援、擁護するための組織に変わっていったと言われている。

1930年4月30日、上海にあったコミンテルン極東局の指示で、ネガラ・センビランNegeri SembilanのクアラピアKuala Pilahで、マラヤ共産党 MCP : Malayan Communist Partyは設立された。
ここにはコミンテルン代表のグエン・アイコック(ホー・チミン)や中国共産党南洋臨時委員会の幹部などが参加していた。

 MCPはマラヤ、タイ、インドネシアの活動を統括。メンバーは殆どが華僑か華人だった。
シンガポールで、植民地統治に反対しマラヤ解放を掲げ活動したが、植民地華人組織「南洋総工会」と「共産青年同盟」を通じて労働争議やストライキを起こさせたとして、イギリス当局により幹部は投獄されてしまう。

1935年までのコミンテルンの指導は、イギリス植民地に於いて、全土開放、プロレタリアート・農民の独裁を目指し、イギリス帝国主義反対闘争は武装蜂起に於いて遂行される、と言うものだった。
しかし1941年6月22日、既に第二次大戦の始まっていた欧州で、ドイツ軍がソ連に侵攻し「独ソ戦」が始まると、今度は資本主義非難は影を潜め、植民地に於ける共産主義者の活動も、「反帝国主義」から「反ファッショ人民戦線」に代わった。
 MCPの役割も、宗主国の「イギリス」が、ソ連の敵であるドイツと戦っているという理由で、今度はイギリスに協力するよう変更されたのだ。
全世界の被抑圧人民を救うのではなく、「革命の祖国ソ同盟」を救うことが第一義になったわけだ。

一方中国大陸では、1915年(大正5年)の「対華21ヶ条要求」などから、中国本土で広がっていた日本排撃の動きは、1931年(昭和6年)9月18日に起きた満州事変から一層激しくなり、1937年(昭和12年)7月7日起きた「支那事変(日中戦争)」で、抗日運動、反日テロが燎原の火のように広がっていた。

東南アジア、特にシンガポールは抗日運動の中心であり、日本製品不買運動、中国国民党政府に資金援助するためのカンパ運動が起こっていた。
1938年ごろからは、ビルマから中国雲南省に続く「援蒋ルート」の「ビルマルート」に、トラックの運転手を送りこむ手助けまで行っていた。

「援蒋ルート」とは、文字通り、日本軍の侵攻で当時重慶まで後退していた蒋介石政府(国民党政府)を援助する武器や物資を届ける道のことだ。
「ビルマルート」は、英領ビルマ(現在のミャンマー)の首都の、ラングーン(現在のヤンゴン)の港に陸揚げされた物資を、鉄道でビルマ中部シャン州にあるラシオ(Lashio)まで運び、その後はトラックで中国との国境を越えて雲南省まで運ぶルートのことだ。
1941年12月から始まった日本軍のビルマ侵攻は、直接的にはこの「援蒋ルート」の遮断が目的だったと言われている。

1941年(昭和16年)12月8日の日本軍の上陸によって始まったマレーに於ける戦争で、マラヤ共産党MCPはイギリス植民地政府と接近する。
イギリスはシンガポールに特殊訓練学校を設置し、MCPが推薦するメンバーに、ゲリラ戦や破壊活動の訓練を施した。
卒業生はマラヤに戻り、1942年1月1日、セランゴール州のスルンダーに、僅か50名のメンバーで、マラヤ抗日人民軍(MPAJA:Malayan People’s Anti-Japanese Army)の第1連隊を結成。その後、7つの連隊がマラヤ各地で結成され、抗日運動を開始することになる。