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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <25> まだ9日目 イギリス領マラヤ

<9日目ー2
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。今日は、「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。

<英蘭協定>
1824年、ナポレオン失脚後、領土を回復したネーデルランド連合王国(Verenigd Koninkriik der Nederlanden)とイギリスの間で、「英蘭協定」が結ばれた。
いままでオランダは、スマトラ島北部のアチェ王国(Kerajaan Aceh Darussalam)を手に入れたいと考えていたが、イギリスがアチェの独立を支持していたため実現できずにいた。
しかしイギリスが従来の政策を転換して、「英蘭協定」の締結によって、イギリスがマラッカを含むマレー半島を、オランダがアチェを含むスマトラ島を領有するという植民地交換が決められた。

1930年代、ジャワの独立運動家で後のインドネシア初代大統領になるスカルノ(SukarnoまたはSoekarno)が、オランダ植民地政府によって流刑となり、後に夫人となるファトマワティと出会ったとされる、当時イギリス領だったスマトラ島西海岸のベンクーレン(Bencoolen またはブンクルBengkul)と、オランダ領だったマラッカを交換したと言われている。

この結果、イギリスは、ペナン、シンガポール、マラッカ(ムラカMelaka)とマレー半島による英国植民地を作った。
更に、当時まだマレー半島に進攻を繰り返していたシャム(Siam 現タイ国)との間に、1826年「バーニー条約 Burney Treaty」を結び、お互いの権益への不可侵を認め合った。
これにより、「イギリス領海峡植民地(Straits Settlements)」が成立した。
1840年、英国極東艦隊がシンガポールから清国との「阿片戦争 First Opium War」に出撃していくのもこの頃だ。

英蘭協定によって、マレー半島は英国領、スマトラ島はオランダ領となった

当時のイギリス帝国の海外植民地


<イギリス領マラヤ>
それまでのイギリスの植民地経営はEIC(イギリス東インド会社 East India Company)が主体だったが、1858年に起きたシパーヒー(セポイ)の反乱に端を発した「インド大反乱」によって、イギリス本国はEICを廃して、以後本国植民地省による直接支配とした。

1874年、マレー半島とシンガポール島による、イギリス領マラヤ(British Malaya)が成立。半島に錫鉱床が開発され、苦力(クーリーCoolie 労働者)として中国人、インド人の移民が活発になった。
1882年には、イギリス・北ボルネオ会社が、北ボルネオ(「スール王国」「ブルネイ王国」の統治を開始する。
1909年「英泰条約」(Anglo-Siamese Treaty)によって、クダ・スルタン国(Kedah Sultanate)やパタニ王国(Kerajaan Patani)はイギリスに割譲され、「イギリス領マラヤ(Unfederated Malay States)」となった。

その「イギリス領マラヤ(Unfederated Malay States)」の統治形はどうだったのだろう。
統治形態によって、地域が3つに分けられた。

①海峡植民地(Straits Settlements)
イギリス本国の直轄植民地(Crown Colony)で、シンガポールSingapore(Singapura)、マラッカMalaca(Melaka)、ペナンPenang(Pinang)など。

②マレー連合州(Federated Malay States)
錫鉱の開発やゴム園の開拓、鉄道の敷設などが行われた半島西岸のペラPerak、セランゴールSelangor、ネグリ・センビランNegri Sembilan、パハンPahangなど4州。
州に居た藩王(スルタンSultan)は、マレー人の宗教と慣習のみの支配者となり、税の徴収や管理、一般行政は、各週に置かれたイギリスの駐在官(Resident)が行った。
これらイギリスの保護領(Protectorate)では、統治はイギリスの海峡植民地総督(Governor)のもとで連邦を組織。
因みに1896年、セランゴールの町クアラルンプール(Kuala Lumpur)が、マレー連合州の首都となった。
この町はクラン川とコンバック川の合流点にあり、清国からの移住者によって、1857年錫の採掘拠点として開発されてきた。

③マレー非連合州(Unfederated Malay states)
マレー半島北部の、ケダ―Kedah、ケランタンKelantan、トレンガヌ―Trengganuの3州と、東南部のジョホールJohore。いずれも首長国でイギリスの保護領(Protectorate)だが、イギリスの顧問(Adviser)が条約締結により統治に参加。連邦を組織せず、地域間の相互協力も有しなかった。


<植民地の統治機構>
「海峡植民地(Straits Settlements)」の行政は、イギリス国王が任命した「総督(Governor)」が行った。彼は陸海軍の総司令官を兼ね、任期は6年。
総督のもとに「立法参議会(Legislative Council)」や行政参議会(Executive Council)があったが、総督はこれらの決議の拘束は受けなかった。

総督の下に中央政庁として、シンガポールに海峡植民地政庁が置かれ、事務局長が指揮・統括を行い、政庁の命令は総務局を通じて発せられた様だ。
地方行政では、ペナン、マラッカは理事官の指揮・管轄下にある理事庁(Residency)が掌握。

財政の予算は、イギリス本国の植民地大臣の承認によって確定する。税金は港湾税、埠頭税、灯台税、免許税、酒税、調整アヘン専売収益などがあった。
警視総監(Inspector General)が指揮・統括する警察があり、シンガポールには独立の「特務部(Special Branch )」があり、一切の政治犯に対し、海峡植民地全域への捜査、記録の中央機関になっていた。
刑務所はシンガポールに2か所(チャンギChangi、アウトラム路Outram Road)と、ペナン、マラッカに1か所づつ。

教育は、英語、マレー語、中国語、タミル語で行われたらしい。
タミル語は、マレーのインド人の殆どがタミル(Tamil)などインド南部からの移民だったからの様だ。
タミル人は北部のアーリア系(Aryan)とは異なる、紀元前2600年から紀元前1800年に栄えたインダス文明(Indus Valley Civilisation)を担った、インドに古くから住んでいたドラヴィダ系(Dravidian)の人種だ。

産業分野での錫鉱床の管理は、1874年マレー西部の各鉱床に駐在官を置いた。
実際の採掘作業には中国人「苦力」が担っていた。
1871年には6,000トンだった採掘量は、1895年には5万トンに増大した。
当時、錫の需要は、合金や、缶の鍍金などだったらしい。
当初は中国人事業者と競合していたが、イギリスは株式会社形式で膨大な資本を投入し、浚渫機などを投入。やがて世界恐慌などで、中国人企業は淘汰されていった。