<8日目ー4>
2024年7月29日 月曜日 マラッカ 最高32℃ 最低25℃。
マラッカ2日目。いまは旧市街の中華街を歩いている。朝感じた喉の痛みが、次第に悪化してきた。
<風邪薬を買いに行こう>
風邪薬を買いに行こう。
一旦戻ったホテルのレセプションで、薬局は何処にあるか「Is there Pharmacy near here?」と聞くが、どうもこの辺には無いらしい。
ショッピングモールの2階にならあると。そのモールの名前を聞くが、上手く聞き取れない。肝心のそのモールが何処にあるのかも分からない。
「Can I walk?」と聞くと、「Yes」と。
この近くにショッピングモールは無いので、Googleマップで探すと、どうもマラッカ・タワーの先の方だ。オランダ広場の奥の旧い砦やザビエルの遺体を安置したセントポール教会などがあるマラッカの丘(Bukit Melaka)を、ぐるっと回り込んで行かなければならない様だ。大分遠い。Grabが使えたら便利なのだが。
仕方ない、待って居ても苦しくなるばかりだ。歩きだす。
雨は上がって、逆に朝方より気温が上がって、頭上を照らす日差しも痛いほどだ。風邪より先に、今度は熱中症で倒れそうだ。
<フロール・デ・ラ・マール(海の花)号>
オランダ広場を抜けて、マラッカ川沿いのJl.Merdeka「独立」通りを進む。
右手のマラッカ川沿いに、高さ34m、長さ36mに及ぶ巨大な木造のポルトガル船が置かれている。
この場所は昔はマラッカ川の河口で、船から荷物を揚げる陸揚げ地だったそうだ。
現在は埋め立てにより、陸地が海に延びてしまったため、マラッカ海峡まではこの先700mはある。
この船は、1511年11月、ポルトガルの第2代インド総督のアルブケルク(Albuquerque)が、マラッカのスルタンの宮殿から略奪した膨大な財宝を、前年に征服した南インドのゴアGoa経由で母国に運ぶ途中、マラッカ海峡のスマトラ島沖で沈没したナウ(Nau)の復元模型らしい。
今は海洋博物館Maritime Museumとなっていて、内部には引き上げられた積み荷の一部が展示されているらしい。
ナウ(Nau)とは、もともと「船」の意味だが、15世紀につくられた3本マストに横帆と縦帆を持った外航帆船のキャラック(Carrak)船だ。
それ以前、主に地中海沿岸で広く普及していた、高い操縦性を持った3本マストにラティーン帆だけを持つカラヴェラ・ラティーナ(Caravela latina)を、インド航路用に積み荷を多く積めるようにした大型船だ。
しかしバスコ・ダ・ガマの第1回インド航海では、このキャラックの他に、補給艦として数隻のカラヴェラ・ラティーナが随伴している。
ラティーン帆は縦帆の一種で、風上に向かって搬送することが出来る。現在のディンギーなどの小型ヨットは、このラティーン帆を使っている。
16世紀になって、このキャラック(Carrak)船がさらに大型化して、4,5本マストのガレオン船(Galeon)に変化してゆく。
<大航海時代の始まり>
そもそも何故ポルトガル船が、アフリカ大陸の喜望峰を越えて、アジアまで、マラッカまで来ているのか?それが不思議だ。
良く言われるのは
①15世紀前半から17世紀にかけて、ヨーロッパで香辛料の需要が増大したため。
②更にはオスマン帝国の拡大によって、従来の香辛料の入手ルートであった、イタリア北部の商人が独占して行っていた東方貿易が圧迫を受けて、香辛料が更に高額になったため。
③そこに遠洋航海術と造船技術の発達により、東方貿易から疎外されていた地中海の最西端の国のポルトガルが、大西洋航路を開拓して、香辛料の原産地であるインドに直接乗り込もうと、インド航路開拓に乗り出したというものだ。
順を追ってみてみよう。
①そもそもなんでヨーロッパで香辛料の需要が増大したのだろう。
もともと香辛料は、ヨーロッパ、とくにゲルマン人の主食である食肉の保存に必要だったが、天然痘やコレラ、チフスなどの伝染病に効くと信じられていたらしい。
これらの病の感染は、匂いが媒介するものと信じられ、香辛料がその匂いを消す香りと考えられた。さらに、実際に胃や腸、肝臓なのの薬としても使われ、当時香辛料は万能の薬と信じられていた。
もう一つはヨーロッパの農業革命にあるらしい。
ヨーロッパ中世の荘園制下では、個々の農民の耕地は存在せず、村全体で耕地を分割して農民が耕作する「開放耕地制」がとられていた。
連作による地味の低下を避けるため、村全体の耕地は2分割され、一方は作付地、もう一方は休耕地として、1年ごとに入れ替える「二圃制」だったらしい。
しかし10から11世紀にかけて、今度は耕地を3分割し、一つは春耕として大麦や燕麦を、一つは秋耕地として小麦、ライ麦を栽培し、もう一つは休耕地として、それを年ごとに替えていく「三圃制」(three fields system」が普及した。
休耕地は家畜の共同放牧に利用された。
休耕と家畜の排せつ物による施肥が地味の回復を助けて、生産が著しく増加。農業生産力向上の原動力となった。
ところが「三圃制」農業では、冬期に家畜のための新鮮な飼料を確保出来なかったので、秋には家畜の殆どを屠殺し、ハムなどの加工肉にするしかなかった。この肉類の保存のため、胡椒が異常に珍重されたとも言われている。
②次いで、当時ヨーロッパが香辛料を入手するルートであった東方貿易が、オスマン帝国の拡大によって阻害されたこと。
東方貿易またはレヴァント(Levant)貿易は、北イタリアの商業都市ジェノバGenovaやヴェネツィアVeneziaの商人による、東地中海沿岸におけるビザンツ帝国やイスラム商人との遠隔地貿易のことだ。
レヴァントとは「日の出る方向」の意味で、ヨーロッパから見て東方の、小アジア(アナトリア半島のこと)やシリア、レバノンを中心に、ギリシャ、エジプトなどを指す様だ。
10世紀に盛んになり、11世紀末の十字軍の時代に一層活発になった。
主に香辛料、宝石、絹織物など奢侈品を輸入して、毛織物や南ドイツの銀を輸出していた。
ところが15世紀、1299年建国のイスラム王国であるオスマン帝国の東地中海への進出とエジプトの征服によって、商人の活動を制約したため、香辛料の価格は更に高額になった。
③遠洋航海術と造船技術の発達
13,14世紀の地中海など、内海では推測航法で十分だったが、15世紀には天体の高度を活用する天文航法(緯度航法)の発達や、羅針盤の実用化、さらには貿易風や偏西風、季節風や海流などを網羅した海洋地理学が発達した。
更に、内海用の帆船からカラヴェラ・ラティーナ、外航帆船のキャラックなどの造船技術の発達によって、大西洋の外洋を航海する技術が備わってきていた。
これらの条件が備わったことで、東方貿易から疎外されていた地中海の最西端の国のポルトガルが、香辛料の原産地であるインドに直接乗り込もうと、インド航路開拓に乗り出したということらしい。
<大航海時代の結果>
1492年、ジェノヴァ生まれのコロンブスChristopher Columbusが、大航海時代にポルトガルに遅れて参入したスペイン王国の後援で、西回りでインド(バハマ諸島)に到着した。
これ以後、ポルトガルとスペインは世界のあらゆる場所で領土を巡って相争うことになった。
このため、1494年6月7日、ポルトガル王国とスペイン帝国が、ローマ教皇の許可を得て「トルデシリャス条約」Tratado de Tordesillasを結んだ。
これは、ヨーロッパ以外の新領土を分割するためのもので、西アフリカのセネガル沖にあるヴェルデ岬諸島の西端から370レグア西方(ほぼ西経46度30分)の経度線(教皇子午線)を境界として、これより東側の新発見地はすべてポルトガル領とし、これより西の新発見地はすべてスペイン領とするという、身勝手な内容だった。
1500年4月22日、ポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルが発見したブラジルは、辛うじてポルトガル領になったが、他の中南米の土地はすべてスペイン領になった。
それは彼が到着して上陸した場所が、ブラジル北東部のバイーア州(Estado da Bahia)のポルト・セグーロ(Porto Seguro)だったが、因みにその州都であるサルバドール(Salvador)の経度は西経38度18分で、教皇子午線の東側だったためだ。
この条約の分界線「西経46度30分」の東の域界、計算上は東経133度30分で、日本の四国の中ほどになるらしい。日本の標準子午線は明石の東経135度だ。
しかしこの「トルデシリャス条約」は、大西洋に分界線を決めただけで、地球の反対側にある分界線を明確に決めたものではなかった。
このため東回りのポルトガルと西回りのスペインが、東洋で激しく争うことになった。
日本では戦国時代の只中で、山城の国一揆(1485年)、加賀の一向一揆(1488年)が起こっていた時代だ。
ポルトガル船によって種子島に鉄砲が伝わる(1543年)のも、1534年設立されたイエズス会のザビエルがマラッカから日本に渡る(1549年)のも、桶狭間で織田信長が今川義元を破る(1590年)のも、もう少し後のことだ。
しかしポルトガルとスペインの間で、特に問題となったのはモルッカ諸島Moluccasの帰属だった。
モルッカ諸島は現在のインドネシア領マルク諸島Kepulauan Malukuで、セラム海とバンダ海に分布する群島だ。
当時モルッカ諸島は香料諸島として知られ、1512年ポルトガル人がはじめて上陸した。
これを知り、スペイン王を説得して世界周航の出資を得たマゼランが、1521年、大西洋を横断。
途中でマゼラン自身は戦死するが、マゼラン艦隊は西回りで地球を半周して東からモルッカ諸島に到着した。
このためスペインは、「トルデシリャス条約」により香料諸島はスペインに帰属すると主張した。
この対立を解決するため、1524年から両国は学者によって、「トルデシリャス条約」の子午線(教皇子午線)の地球の反対側にある子午線、いわゆる「対蹠(たいせき)子午線」の位置を計算し、地球を2つの半球に分けようとした。
1529年4月22日、スペインのサラゴサZaragozaで、ポルトガル王と神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王のカール五世によって「サラゴサ条約」(Treaty of Zaragoza)が結ばれた。
これによると、東方における両国の境界を、モルッカ諸島から東に約17度進んだところ、東経144度30分に決めた。
この結果、ポルトガルはモルッカ諸島やマカオなど、境界から西の全ての土地と海を領有し、スペインは太平洋の大半を領有することになった。
従来の「トルデシリャス条約」による境界は変わらないので、ポルトガルはアジアやアフリカなど全世界の191度分、スペインは太平洋や南北アメリカなど169度分を領有することとなった。これによって世界を二分割する「デマルカシオン(demarcacion)体制」がつくられたらしい。
と興味が尽きない海洋博物館なのだが、しかし、興味はあっても、今の私に寄り道している気力も体力もない。早く風邪薬を買いに行かなければ。