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マレーシアひとり旅(2024年) <19> まだ8日目 マラッカの中華街と金子光晴のマレイ「馬来」の旅

<8日目ー2
2024年7月29日 月曜日 マラッカ 最高32℃ 最低25℃。
昨日KLからバスで、ようやくマラッカに着いた。今日は朝から旧い中華街を散策している。でも風邪をひいたのか、具合が悪い。

<ショップハウスと軒廊(こんろう)>
中華街のメイン通りのジョンカー・ストリート(Jln Hang Jebat)を歩いている。
左右には、伝統的な作りのショップハウスが続いている、
店の中の様子は、半ば東京の原宿の土産物屋のようだが。

ショップハウスは、17世紀に建てられたチャイナタウンなどにみられる建築だ。
歩道に面して出店して、1階が店舗、2階以上が住居になっている店舗兼住宅の建物だ。マラッカのショップハウスでは、道路に面した前面の1階部分が「軒廊」(こんろう)と呼ばれる、通行可能なアーケードになっている。

建物の作りは、一般的に間口が狭く、奥行きが長い。これはオランダの統治時代、間口の幅で税金が決まったためと言われている。建物の両側の壁はレンガやコンクリートでできている。
屋根は柿色のテラコッタ瓦葺き。
建物の中央に自然の採光と通風のため、吹き抜けの中庭エアウェルAirwellが設けられている。

この建築様式は、西洋諸国の東南アジア地域での植民都市建設に際して、中国本土から移住した華人によってもたらされた中国南部の住居形式「店屋」が、西洋の影響を受けて変形して定着したものと言われているらしい。
東南アジアで、今でもショップハウスのある地域には、チャイナタウンがつくられている地域が多い。此処マレーシアやシンガポールなどでは伝統的な建築様式だ。

ジョンカー・ストリートに軒を並べるショップハウスにも、ホテル前のラクサマナ通り(Jl.Laksamana)と同じく、歩道に沿って店先にずっと軒廊が付けられている。
「軒廊」と云うより、中国南方の建築様式の「騎楼」の方が良いのかもしれないが。他の東南アジアの国では余り見かけない。
それが通り沿いにずっと続いている。だから雨が降っても濡れずに通りを歩ける。

軒廊(こんろう)


<金子光晴のマレイ「馬来」の旅>
前述した金子光晴の「マレー蘭印紀行」(1940年昭和15年)という紀行文中にも「軒廊」(こんろう)が登場する。
「マレー蘭印紀行」は、詩人で日本画家でもあった33歳の金子が、1928年(昭和3年)から1932年(昭和7年)まで、中国、ヨーロッパ、南洋を放浪した中の、南洋の旅を記録した文章だ。

金子光晴「マレー蘭印紀行」




日本では昭和恐慌の只中にあった時代、金子のマレーの旅は、シンガポールから出発して、マレー半島に進出していた日本企業、例えばジョホールの三五公司のゴム園や、スリメダン(Sri Medan)の南洋鉱業公司(現在の石原産業)、採掘した鉄鉱石を輸出する港として開港したバトパハ(Batu Pahat)などを巡って、時折、描いた日本画を売りながら、南洋に海外進出した日系社会に寄食しての旅だった。

それはこんな風だった。
「バトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は旅装をとき、しばらく逗留することになった」(金子光晴「マレー蘭印紀行」1940年昭和15年)。
宿に到着すると、「三階のすみには、古びた支那寝台がいくつも用意してあって、勝手にどこへころがってもよかった。支那人ボーイが洗晒した浴衣と、豆ランプを持ってきてくれる。」(同上)

ここは、一帯に点在する日本人ゴム園などの関係者が使用する厚生施設の様なもので、いまのバックパッカーが泊るゲストハウスのドミトリーの様な雰囲気だ。
食事は、バトパハ河岸の軒廊(カキルマ)のはずれにある支那人の珈琲店で、毎朝、芭蕉(ピーサン)2本と、牛酪バタとざらめ砂糖をぬった麺麭(ロテ)一片。珈琲一杯の朝食をとっていたらしい。

<カキルマ軒廊の意味>
彼はこの紀行文の中で、ショップハウスに設けられた「軒廊」を、「カキルマ」とルビを振っている。この振り仮名はマレー語らしい。
彼は他の事物にも、例えばバナナを「芭蕉ピーサン」、パンを「麺麭ロテ」などと振り仮名をふっていて、これらもマレー語だ。

実は私は、この中に出てくる「軒廊カキルマ」について、マレー語の「Kaki Rumah」だと思い込んでいた。日本語だと「家の足」か。
「軒廊」は、先述のとおり住居になった2階部分が歩道にせり出して、歩道を覆う屋根になった作りだ。確かに歩道の部分は、2階の「家」(ルマRumah)の「足」(カキKaki)の様で、言い得て妙だなと思ったのだ。
しかしある時、別の本を見ていたら、なんと「軒廊」は「カキルマ」ではなく「カキリマ」(Kaki lima)だと書いてあった。
意味は「5フィート」だ。5(lima)フィート(Kaki)。

これは英国植民地時代、行政府からの指示で商店の前面に5フィート(約1.5m)の「軒廊」(ファイブ・フィート・ウェイ)を作ったため、「カキリマ(Kaki lima)」と呼ばれるようになったらしい。
「カキルマKaki Rumah」ではなく、「カキリマKaki lima」だったのだ。「Kaki」が「足」と「フィート(長さの単位)」の両方の意味を持っていたので、分らなかった。

インド人街の軒廊

中華街の軒廊(ホテル前の道)