<7日目ー5>
2024年7月28日 日曜日 マラッカMelaka 最高34℃ 最低27℃。
KLからバスでマラッカに到着して、いきなりランドリーで洗濯する破目になり、いまようやく中華街で美味しい夕食を食べたところだ。
<マラッカって、日没が遅くない?>
18:45、帰りにホテルに戻ろうと、チャン・クン・チェン橋でマラッカ川を越える。
広い空を見上げると、もう夕暮れのはずなのに、ずいぶん明るい。東京だったらもうそろそろ日が暮れて、日没の時間じゃないのかなぁ。
実はマレーシアにきて、ジョホールでもKLでも、なんとなく、此処って朝が暗く、夜はなんでいつまでも明るいんだろうって思っていた。
その時は、やっぱり経度が日本より西だから、日の出も日没も遅いのかなぁと思っていた。
まだ現役で働いていた時、仕事で東京から福岡に転勤になった。
仕事帰りや休日などに、夕方、福岡市西新(にしじん)の商店街を歩きながら、西日本は日の出も、日の入りも遅くて、まだ一杯飲むにはバツが悪いなぁと思った記憶がある。
マレーシアも、KLでもここマラッカでも、日本より随分西だから日没が遅いのかなぁと漠然と思ったが、でもそれって余りにも甚だしい勘違いだと気づいた。
もし私がKLの空港に着いたとき、マレーシアと日本との時差で、時計の針を1時間戻さなければ、KLやマラッカの日没は更にびっくりするくらい遅く感じていただろう。
福岡が東京より日没が30分位遅いと感じたのは、東京で使っていた時間と福岡で使っている時間、所謂日本の標準時が同じだからだ。
その同じ時間に対して、場所によって日没の起きる時間が異なるため、「遅い」と感じるだけなのだ。
地球は自転しているのだから、日の出や日没は、地球の経度に沿って時差的に次々に起きているはずだ。だから、ホーチミンでもシェムリアップでも、ジャカルタでも経度に沿って、標準となる時間を時差的に変えていけば、私が東京で感じる日の出や南天、日没時間と極端には違わない印象になるはずだ。もちろん厳密には、緯度や季節による多少の変化はあるにせよだ。
でも、なんでマレーシアって、ベトナムやカンボジアではあまり感じたことがないほど、こんな違和感があるんだろう。
ラクサマナ通りJl.Laksamanaの軒廊(こんろう)の下を歩きながら、ホテルまで戻ってきた。
入り口を入ろうとすると、なんと初めてホテルの横が小さなコンビニエンスストアのセブンイレブンであることに気付いた。
間口が狭いのと、看板などの表示が地味で分からなかった。
多分周囲の景観を損なわないように、いつものオレンジ、緑、赤の目立つ装飾はしていないのだろう。しかし、なんで気づかなかったのか訝しいほどだ。そのくらい、ようやくマラッカまで辿り着いたので舞い上がっていたのかなァ。
でもこれは助かる。早速入って水と、明日の朝食べる日持ちのするパン、ヨーグルト、そしてタイガービールの500ml缶を買う。ホテルには朝食が付いていないためだ。
しかしマレーシアの素晴らしい(?)ところは、憲法で国教がイスラム教と定められているにも関わらず、こうして手軽にコンビニエンスストアでビールが買えるところだ。確かに値段は日本の価格と同じか、高い位だが。
<グリニッジ標準時>
シャワーを浴びて、ベッドの上でビールを飲みながら、iPhoneでマレーシアの日没時間と標準時について調べてみた。
「標準時」(STDT : Standard Time)が導入される前は、世界中各地域、各自治体はそれぞれの場所ごとに太陽の位置に合わせて、時間を定めていたらしい。
それが19世紀の初めに鉄道が敷設され発達すると、高速で広範囲に移動するため、従来のやり方では通過する地方ごとに頻繁に時間を合わせ直す必要が出てきて不便になった。
このため、鉄道発祥の地イギリスで、広範囲に共通の時間を表示する「標準時」の考えが生まれたらしい。
これは鉄道だけでなく、世界中を航行する船についても同様の問題を投げかけた様だ。
これを受けて、1884年10月、アメリカのワシントンDCで、「国際子午線会議」(International Meridian Conference)が開かれ、天文台のあるイギリスのグリニッジを、経度0度0分0秒の「初子午線」(Prime meridian)とする「グリニッジ平均時(標準時)」(GMT : Greenwich mean time)が定められた。
次いで、地球の自転によって1日は24時間なので、地球(360度)を経度で分割すると、15度で1時間になる。
地球上の経度を、この15度ずつ異なる24の区域に分けて、各区域の中央の時間を、その区域の標準時とする「GMT(グリニッジ標準時)システム」が、1885年1月1日に全世界で採択された。
現在ではこの「GMT」は、天体観測に依るものより更に正確な、原子時計に基づいた「協定世界時」(UTC : coordinated universal time)として使用されているらしい。
表記はこの「UTC」により、ロンドンの時間は「UTC+0」、東京は「UTC+9」と表記される様だ。「+9」とは、ロンドン時間より9時間進んでいる、「時差」が9時間あることを示している。
<標準時と時差>
日本は、兵庫県明石市を通る東経135度子午線上での時刻を、「標準時」としている。
経度15度が1時間に当たるので、135度÷15度=9時間となり、日本の標準時は、「UTC+9」と表記される。
因みに、私が西日本は日の出も、日の入りも遅いなぁと感じていた福岡は、東経130.418度、東京は東経140度だから経度差は約9度。9度×60分÷15度=約36分。つまり、東京と福岡の時差は実際は約36分あるのに、同じ日本標準時を基準に見ているので、福岡は日没が遅くて、飲み始めるのにバツが悪いなぁと言う印象になる訳だ。
周辺の国を見てみよう。
香港は、東経(約)115度なので、1904年に「GMT+8」(現在は「「UTC+8」」だ。日本との時差は1時間。
ベトナムのハノイは、東経105度で「UTC+7」。こちらは日本との時差2時間だ。
カンボジアのプノンペンは、東経105度で「UTC+7」。
インドネシアのジャカルタは、東経106度で、「UTC+7」。
なおインドネシアの様に、東経95度から141度に、東西5,110Kmにわたる広大な地域で構成された国では、スマトラやジャワなどの西部標準時は「UTC+7」、バリやスラウェジなどは中部標準時「UTC+8」、マルク諸島やニューギニア東部のような東経141度より東の地域は、東部標準時「UTC+9」とされている。
タイのバンコクは、東経100度だが「UTC+7」。タイの標準子午線が、東経105度だからだ。
実は、インドシナ半島(Indochinese Peninsula)にある多くの国、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイは、所謂東経105度を子午線とする「UTC+7」の、インドシナ時間(ICT : Indochina Time)を採用しているのだ。
一方、マレーシアのクアラルンプール(KL)は、東経101度だが、マレーシアの標準時は「UTC+8」だ。
えっ?!バンコクとKLは殆ど同じ経度にありながら、何故時差が1時間もあるんだろう。緯度が100度なら÷15度=6.7 じゃないのか。せめて「+7」であって、「+8」は流石に論外ではないのかぁ。
これでは、天体現象である日の出や日没が、マレーシアの標準時とかけ離れてしまい、遅い日の出やいつまでも日が沈まない夜などの違和感が起きても不思議じゃない。これが私がマレーシアの時間に感じていた違和感の正体だ。
しかし、同じような経度でも、同じ標準時をとらない国も昔からあったようだ。
例えば、ロンドンは西経0度07分41秒で「UTC+0」だが、フランスのパリは東経2度21分04秒だが「UTC+1」だ。スペインのマドリードも、西経3度41分31秒だが「UTC+1」だ。
本来であれば「+1」とするには、15度の経緯度の違いがあるはずだが、そうはなっていない。これは科学的、時間的規則を越えたいろいろな思惑が働いているからだろう。これは標準時採用の当初からあったようだ。
では、この不思議なマレーシアの標準時はどんな経緯(思惑)で決められたんだろう。
<マレーシア標準時MSTはどうやって決められた?>
マレーシアの標準時の先鞭をつけたのも、やはりイギリスだった。
最初イギリスの「海峡植民地」を構成するペナン(東経100度)、マラッカ(東経102度)、シンガポール(東経104度)は、それぞれ天文台を持ち独自の時間を使用していた。
1901年1月1日に、海峡植民地と英領マラヤは統一してシンガポールの経度に近い東経105度を、標準時を決める子午線とした。これは当時シンガポールに統治機関が置かれていたためだ。東経105度は、今でいえば「UTC+7」に相当する。
この標準時が1932年まで続いた。
それが大きく変化したのは、1942年2月16日、マレー半島を日本軍が占領して統治してからだ。
これより日本軍が敗北する1945年9月12日まで、マレーシアの標準時は日本標準時と同じ「UTC+9」の「Tokyo Standard Time」となった。
これでは、今でさえ違和感のあるマレーシアの日の出や日没が、とんでもない時間に起こっていたんだろうと想像できる。
でもこれは、日本と言う占領者が、本国からの統治に都合の良い時間帯を無理やり押し付けたということだ。
実はマレーシアの標準時の決め方にも、大なり小なり様々な政治的な思惑があって決められていた様だ。
第二次大戦終了後の1945年9月13日からは、再び植民地に戻ってきたイギリスが、英領マラヤ標準時(British Malayan Standard Time)を制定する。
これは「UTC+7:30」と言うもので、マレーシア独立の1963年以降も1981年12月31日まで続く。
この「UTC+7:30」という中途半端な設定は、広範囲なイギリス植民地経営に極端な時差は不便なので、東の植民地「香港」の「UTC+8」」にすり寄った結果かもしれない。
その後1982年1月1日からは、マレー半島の時差を30分早めて、東経117度のボルネオ島のサバ州や東経113:50のサラワク州で従来からを採用していた「東マレーシア標準時」の「UTC+8」に合わせるような形で、マレーシア標準時「UTC+8」を採用しているのだ。
マレーシアの人口の約80%がマレー半島にいるにも係わらず、何故東マレーシアの標準時に合わせたのだろう。
実はこの「UTC+8」圏というのは、中華圏全域とマレー諸島の殆どの地域、中国語とマレー語が公用語である国で使用され、世界の約24%の人が住む人口の最も多い時間帯なのだ。
マレーシアの人口の約23%ながら、巨大な経済権益を擁するマレーシアの中華系の人々の考えが、反映されているのかもしれない。