歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <20> まだまだ8日目 ジョンカーストリートで雨宿り

<8日目ー3
2024年7月29日 月曜日 マラッカ 最高32℃ 最低25℃。
マラッカの中華街、ジョンカー・ストリートを歩いている。

<「マレー蘭印紀行」の時代の日本>
金子の旅した頃の日本は、主に欧州での争いであった第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)による特需で、大幅な輸出超過になり「大戦景気」に沸いたが、戦後欧州各国の復興に伴い、その反動で1920年頃から「戦後不況」に見舞われていた。
次いで1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の被害による「震災不況」、また金子が旅に出る前年の1927年、震災によって決済できなくなった「震災手形」を巡る信用不安が、銀行への取り付け騒ぎを起こす「金融恐慌」に発展し、国内は混乱していた時期だ。

金融恐慌で銀行に取りつけ騒ぎが頻発した

その中で1929年7月に登場した浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、いわゆる極端な「緊縮財政」をとった。
大戦景気で伸びた一部の国内企業は、その後の不況でも政府の救済措置で、高コスト、高賃金のままで生き延びていたことに対し、これら企業を倒産も覚悟で整理して、国際競争力を強化することを目指したのだ。

更に1930年(昭和5年)1月11日、第一次大戦勃発時の1917年(大正6年)以来停止していた「金への兌換と金の輸出」を、10年ぶりに復活させた。
1928年フランスが「金本位制」への復帰を行って、主要国で未だこれを行っていないのは日本だけとなっていた。
このため為替相場が乱高下して不安定となり、金融界や貿易関係の業界から金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が上がっていたためだ。

しかし金解禁に際しては、交換停止前の旧平価で行うのか、現在の価格である新平価で解禁するのかの問題があった。
他の主要国のほぼすべてが、新平価での復帰を選んでいた。
その中で、井上蔵相はあえて10年前の旧平価(1ドル=2.005円)のままでの解禁に踏み切った。
これは当時の為替相場が1ドル=2.300円前後だったから、異常なまでの円高基調となり、輸出を不調にし、国内に安い輸入品が入ってくるデフレーションを起こすことになる。
しかし井上財政は、金解禁によるデフレと緊縮財政により、一時的に経済状態が悪化しても、いずれ企業淘汰によって国際競争力が向上し、景気は回復すると考え、金解禁を断行した。

しかし、1929年10月24日(木)ニューヨークのウォール街で始まった世界恐慌の波が、門戸を開いたばかりの日本に襲い掛かってきた。
もともと井上緊縮財政による不況下にあったところ、世界恐慌によって輸出が激減して「昭和恐慌」が起きた。

国民所得(GNI)は1924年(昭和4年)を「100」とすると、1931年(昭和6年)は「77」になった。また日本の主な輸出先は、生糸はアメリカ、綿製品や雑貨は中国などアジア諸国だったが、これらの国は恐慌のダメージの大きい国だったため、輸出額は「100」が「53」、輸入額も「60」に下がった。輸出の主力産品であった生糸価格は「45」まで下がり、綿糸価格も「56」になった。
このため特に疲弊が大きかったのは、生糸の対米輸出が激減した農村だった。デフレ政策と、1930年(昭和5年)の米の豊作によって、米価が下落。農村は深刻な被害を被っていた。

その中で、1931年(昭和6年)9月18日、中国奉天郊外の柳条湖で起きた南満州鉄道の線路が爆破されたことにより、「満州事変」が勃発した。
関東軍により満州全域が占領。1932年(昭和7年)3月1日、満州国が建国。その後1933年(昭和8年)5月31日、中華民国との間で塘沽停戦協定が結ばれたが、大陸ではなお戦火が拡大していた。

1931年12月に組閣した犬養毅内閣の高橋是清蔵相は、昭和恐慌からの脱出のため経済の活性化を図るべく、金本位制からの離脱により、政府の管理下で紙幣の発行量を調整できるようにした。
金に縛られない紙幣の大量発行で、円為替相場は下落し「円安」になり、輸出が拡大した。
特に中国、インド、東南アジア向け綿織物の輸出が伸びた。このため同じ地域に綿織物を販売していたイギリスと貿易摩擦も生じる位だった。日本は積極的な経済政策と、満州を経済圏として持ったため、1934年(昭和9年)ごろには、世界に先駆けて恐慌から脱出出来た。そんな時代だった。

昭和6年に起きた満州事変(靖国神社 遊就館図録より)


<金子光晴の旅の底>
彼の旅はバックパッカーの憧れる旅の様だが、実はこの時代の中、当時の金子は妻とその恋人との三角関係に陥っていた。
それを断ち切ろうと妻を伴ってシンガポールへ向かったが、妻はそこから恋人を追ってパリに行ってしまう。
金子は渡航費用を稼いでから追って行くと、南洋の地に残って、その後4年間あてどなくマレーや蘭印の地を放浪していたのだ。

金子は、食事の最中小さな烏賊(イカ)を見つけて、思い出す。
「『坊や』」
「四歳の時日本へのこしてきたまま、足掛け5年あわない子供にめぐりあった気がした。」「小さなぐりぐり頭が目の先にうかんでくる。」
「『父ちゃん、なぜかえってこないんだ』玩具刀をふり上げていう声までがきこえてくる」(金子光晴「マレー蘭印紀行」)。

<ジョンカー・ストリート>
この軒廊(カキリマ)の続くショップハウスを歩きながら、土産店で、家で待っている幼い孫娘に、中国娘を形どったメモを留めるマグネットRM12(約408円)とブレスレットRM16(約544円)を買う。

店を見て歩いていると、突然の雨。それも大粒の雨が激しく降り始めた。
マラッカ海峡に面したマレー半島Peninsular Malaysiaの西海岸にあるマラッカは、ケッペン気候区分では所謂「熱帯雨林気候」で、5月から9月に南西モンスーンMonsoonが吹き、この時期「雨季」に入る。
反対に半島の東海岸やサバ州やサラワク州などボルネオ島では、11月から3月に北東モンスーンの影響で「雨季」になる。
いまマラッカは雨季のシーズンだ。今日も、朝からいつ雨が降ってもおかしくはない空模様だった。

11:30、慌てて土産店の軒下に避難し、どうせならとその奥に在った「Backlane Coffee」に入った。
コーヒーRM10(約340円)とマフィンRM12(約408円)を注文する。
ここのコーヒーは、コピティアムの様なコピでもホワイトコーヒーでもない、普通のドリップコーヒーだ。
コーヒーを飲みながら、窓の外に見える家の軒から勢いよく落ちる雨粒を眺めていた。
雨は本降りになって、賑やかなジョンカーストリートとは違った、裏通りの普通の民家の古ぼけたスレートの屋根を伝って、軒を流れ落ちている。
何も考えず黙ってみていたら、過ぎてゆく時を忘れそうな時間だ。

しかし身体が熱い。今朝喉が痛かったが、次第に本格的に風邪の症状になって来たようだ。頭痛、鼻水、喉の痛み。そのうえで街を歩き回ったので熱が出てきたのか、悪寒までする。
このまま居ても仕方ない。
12:10頃、軒廊伝いに移動して、数軒先のファミリーマートで折り畳み傘を買った。RM19.9(約676円)。

普通のコーヒーを飲みながら