<4日目ー2>
2017年 2月24日 金曜日 曇り、午後からスコール。31度。
昨日、ジャワ島最初の街、首都ジャカルタから鉄道で7時間42分掛かって中部の古都「ジョグジャカルタ」に到着した。
今朝は早速街の散策を始めたが・・・。
<ジョグジャカルタのクラトン王宮を目指す>
ホテルを出て、王宮(クラトン)を目指して、ジョグジャカルタのメイン通り「ジャラン・マリオボロJl Malioboro」を歩いている。
通りを南下して、途中のインフォメーションセンターで市内の地図を貰う。
カウンターにジルバブを着けた若い女性が3人いる。道に王宮への標識が無かったので、「サヤ マウ ク クラトン。ジャラン トゥルース ジャラン・マリオボロ? Saya mau ke KARATON. Jalan terus Jl Malioboro? 王宮に行きたいのですが、ジャラン・マリオボロを真っ直ぐ行けば良いのですか?」と片言のインドネシア語で訊ねると、にっこり笑って「ヤーYa! ええ」と。丸い大きな目と白い歯が美しい。
でもこれで私のインドネシア語が「not Good」だと判ったのか、「Are you from?」と言うので日本からだと答える。
「トゥリマ カシ Terima Kasihありがとう」と言うと、「サマサマ Sama-sama どういたしまして」と。
更に歩いて南下。突き当たると王宮の筈だが、標識も無い。暫く歩くと、綺麗なジルバブを被ったインドネシアの女性2人が、スマートフォンで写真を撮りながら向こうから来る。ついで今度は制服を着て、女子は真っ白なジルバブを被った子供達が列をなして来たので、こちらに行けば大丈夫と一安心。
駐車したベチャで狭くなった舗道を横に避けて待っていると、子供たちはみんなこちらを見てニッコリと微笑んでくれる。本当に可愛い。
JL MALIOBOROを真っ直ぐ南に歩いてきたら、王宮前の公園に出た。
この広場をぐるっと囲むように続いている広い道路を横切って中に踏み込むと、ただの原っぱで何もない。端にサッカーのゴールポストらしき鉄の枠が倒して置いてあったので、運動に使って居るのかもしれない。
手に持っていた地図を見ると、此処は「北アルン-アルン広場 Alun-alun Ler」と言って、スルタンに謁見を求める群衆の集まったところらしい。
ここを突っ切った先は、柵で行き止まり。王宮の入口は土産物屋が並んだ右手を回ったところにある。
チケットカウンターで、ツーリスト料金RP7,000(約60円)のチケットを買う。ポケットのお金を探していたら、ローカル向けの料金は見損なった。
王宮KARATONの建物はパビリオンで、壁が無く柱だけの開放的な造りだ。その中に玉座らしいものが置かれている。他の建物の展示は、昔の儀礼や何故か馬車の写真ばかりだ。
思わず、これでお終い?と言いたくなる。
でも、此処は良くある「王宮跡」ではなく、現役のスルタンが住んでいるはずだ。
16世紀この地に栄えたイスラム系スタラム王国は、18世紀になってオランダ東インド会社(VOC)の保護下に入り、1755年3度に渡るジャワ継承戦争の結果ジョグジャカルタ王国とスラカルタ王国に分裂する。更にその後、その2王国もそれぞれ2分され、計4つの王国が並立することになった。
その後1945年、進駐していた日本軍の降伏後に始まったインドネシア独立戦争の時、他の王家のスルタンが旧宗主国オランダに従順だった中、ジョグジャカルタのスルタン・ハメンクブウォノ9世だけは独立派に協力。
そのため1945年から1949年独立承認までのインドネシア独立戦争の間、ジョグジャカルタはインドネシア共和国の臨時首都だった。
独立達成後、他のスルタンが廃止される中、ジョグジャカルタのスルタン・ハメンクブウォノ9世だけは独立に協力したため、この地を特別行政地域としてスルタン領の存続が認められた。
1950年の法律で、ジョグジャカルタが特別州となり、スルタンが知事を務めることが明記され、現在も子息のハメンクブウォノ10世が知事を務めて、王宮に暮らしているはずだ。
だからこんな人気のない建物だけのはずはない。
しかしこれは北宮で、南にも王宮があるはずと案内書きを探すが、敷地内には何処にも無い。
それにも増してホテルから炎天下を歩いて来たので、頭がクラクラする。
不味いなぁ!と思い、どこかに座ろうかと思ったが、此処はJL MALIOBOROと違って、日陰に置かれたベンチや椅子はどこも所在無く佇むローカルの男性に占拠されている。こりゃ不味い。早くどこか涼しいところで座らなくちゃ。
<ベチャに乗ってタマンサリ離宮TAMANSARIへ>
出口を出て、人々が歩いている方に進みながら、この先に南の王宮が有るのかと地図を見直すと、そこは「タマン・サリTAMAN SARI」と言う離宮だ。
ペットボトルの水を飲みながら、では近くの離宮「TAMANSARI」に行こうと前を見て歩き始めると、何人ものベチャのドライバーに声を掛けられる。それでも暫らく歩くが、やはり足元が覚束ない。やっぱりベチャに乗った方が良いのかなぁと、ふと振り返ったら、痩せた年配のドライバーと目が合ってしまった。
これは近場でもベチャにしようとこの年配のドライバーのベチャに乗る。
ベチャはベトナムのシクロと同じ様に座席が前に有り、後ろでドライバーが自転車を漕ぐ。中には自転車で無くオートバイが付いたものもあるが、今回は自転車だ。私は年取って余計に身体が硬いので、乗り込むのも大変だ。
しかし走り出すと座っているだけで移動出来るし、前から風は来るし安楽だ。しかも近いと思っていた「TAMANSARI」はなかなか着かない。
漸く着くと、ドライバーの男は待っているので帰りも乗らないかと言ってきた。私は往復RP40,000と言ったが、ドライバーはRP50,000(約420円)でと言う。高いがOKする。
するとドライバーの男は、自分の顔と汚れたティーシャツと、ベチャに描かれた屋号を何度も指し示し、これだから忘れるなよと言うようなことを繰り返し言う。