<3日目ー2>
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホールに着いて二日目。今晩の宿を探している。
<Hotel Indusはどお?>
YWCAで宿泊出来ないかと、ドミトリーの部屋を見せて貰ったが、ベッドを使っている皆が皆シュラフを使っているらしい。
夜が寒いのか、ベッドに虫がいるのかは分からない。しかし、シュラフを使わなければ無理そうだが、私は生憎シュラフを持っていない。
この時点で宿泊を諦め、YWCAを辞して、他のホテルを捜しに表通りに出て来た。
再びCharing Crossまで戻って、Mall Roadを渡り、少し西に歩いたところに、通りに面して建つ「Hotel Indus」を見つけた。
此処は、当初宿泊を目論んでいたYWCAの他に、昨晩ガイドブックで見て目星を付けていた中級ホテルだった。
中に入って、receptionの男性に「Can I get a room?」と聞くと、「Yes」と。
「How much is the room charge?」と聞くと、A/C付きでRs.800/nightだと。
Diningもあるらしい。そこに投宿することにした。
1泊 Rs.800(約1,920円)×2泊=Rs.1,600(約3,840円)。デポジットを、ルピーの現金で支払う。
部屋は清潔で、真っ白なシーツの敷かれた大きなダブルサイズのベッドとデスクが置かれていた。簡素なYWCAとだいぶ違う。
ホテルの部屋に荷物を置くと、明後日のムルタン行きのBUSチケットを買おうと外に出た。
ガイドブックに付いていたラホール市内の地図には、Charing CrossからEgerton Rd.にPTDCのインフォメーションがあると描かれている。
しかしさっきYWCAを捜して歩いているとき、TourBUSの様なBUSを見かけた。あれはもっと近いLawrence Rd.だったので、先にそこに行ってみることにしよう。
確かこの辺りだったよなァと捜しながら行ってみると、そこはTDCPのオフィスだった。あれっ?!PTDCのインフォメーションこっちに移ったのか?いや地図が充てにならないのかなぁ?!
PTDC(Pakistan Tourism Development Corp.)とTDCP(The Tourism Development Corp. of Punjab limited)と取り違えていることに気付かず、そう考えていた。
先ほどBUSが停まっていた路地からオフィスの中に入ると、沢山の人が荷物を持って待合室のベンチに座っている。窓口の上にはBUSの時刻表や、BUS Tourのポスターが貼ってあった。
このTDCPでも、パキスタンで「フライングコーチ(Flying Coach)」と呼ばれている、大型のA/C付きの長距離バスがムルタンまで行っている様だ。
壁に掲示されているTime Tableを見て、窓口で「Can I have a ticket to MULTAN, Please?」と言い、発音が悪いので間違われないように、その場で急いで書いた出発時間のメモを見せて、 明日の夜行21:00発のBUSのチケットを買う。
当初、明日の夜はホテルで泊まって、明後日の昼間に移動しようと思っていたが、夜行があるなら移動時間の節約になる。その分だけムルタンに長くいることが出来る。そう考えて即決してしまった。
ムルタンはラホールから南西に300Km、バスの所要時間は凡そ5時間らしい。
シートNo.8。Rs.140(約336円)。出発はこのオフィスの前からだそうだ。
次いでに、ラホールの街の地理的な概要がまったく分からないので、本格的な街歩きの前に概要を得ようと、午後14:30から18:00までのラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」を申し込む。
こちらはムルタンまでのバス運賃の倍の、Rs.300(約720円)もする。おそらく殆どの客が外国人だからなのかもしれない。
14:15、この場所からTour BUSが出ると。
ルピーの現金が少なくなってきたので、近くにあった両替屋に行ってみる。
US$100を両替。Rs.5,400。US$=Rs.54。空港より僅かにレートが良い。
US$=¥130円とすると、パキスタン・ルピーはやはりRs.=約2.4円位か。
一旦ホテルに戻り、ホテルのDiningに行こうとレセプションで場所を聞くが、食事は部屋に運ぶと言われる。意外な気がしたが、私はどちらでも構わないので、サンドウィッチのルームサービスを頼む。
部屋でしばらく待つと、やや旧びているが白い制服を着た年配のボーイが運んできてくれた。代金のRs.70(約168円)とチップRs.10(約24円)を渡す。
ホテルでの食事のあと、集合時間の14:15にTDCPのオフィスに行く。
ミニバスに乗って、ラホールの市内観光に出る。参加者は、殆どが欧米人の男女だ。日本人と言うより、アジア人は私ひとりだ。
<ラホールの街>
ラホール(Lahore)は、インドとの国境から僅か西に24Kmの地にあるパンジャブ州(Province of Punjab)の州都だ。400万人以上の人口を抱え、アラビア海沿いの商業都市カラチ(Karachi)に次ぐパキスタン第2の都市だ。
パンジャブ(Punjab)とは5本の川の意味らしいが、ラホールはこのうちラヴィ川(River Ravi)の南に開けた町。これらの川が幾度となく流路を変えるうちに肥沃な土地を生み、古代からこの地に文明が栄えて来たらしい。
ラホールの南西約200Kmのラヴィ川沿いにある「ハラッパ―(Harappa)」遺跡は、モヘンジョダロ(Moenjodaro)などと並ぶ、インダス文明(Indus Valley Civilisation)の都市遺跡だ。
ラホールは位置的に西方からのインド世界への入口になっていて、歴史的には紀元前1500年のインド・アーリア人の侵入、アレクサンダーの遠征もそうで、ムガール帝国の始祖であるバーブル(Babur)も1519年、ハイバル峠を越えてペシャワールからインダス川を渡りパンジャブ地方に侵入している。
またヒンドゥー教に繋がる「ヴェーダ」の宗教や、イスラム教、ギリシャ・ペルシャ文明の伝播もここからだったらしい。
東西交易の重要なルート上に在って、インド亜大陸で1525年から1720年まで200年続いたムガール帝国(Mughal Empire)では、デリーやアグラと共に首都であった都市だ。第3代アクバル帝の1584年から1598年、第4代シャハンギール帝の1622年から1627年に首都となり、常に文化や教育の中心的な都市だった。
因みにムガール帝国とは他称で、始祖で初代君主のバブール(Babur)がモンゴル帝国のチャガタイ・ハン国(Chagatai Khanate)の末裔であるティムール朝(Timurid Empire)の一族のため、「モンゴル人の帝国」の意味でそう呼ばれたらしく、自称は「ヒンドゥスターン」(Hindustan)だった様だ。
しかし、ラホールは近代のインド・パキスタン史に於いても、とりわけ重要な都市だった。
それはインドとパキスタンの独立に於いて、エポックメーキングであった2度の決議が行われた場所だったからだ。