歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インド・パキスタンひとり旅(2000年) <6> 3日目 ラホールの街で宿を探す

<3日目ー1
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ

<ラホールの街で宿を探す
Hotel Ambassadorで朝食(ホテル代金にinclude)後、荷物をまとめてcheck outする。
ここは、右も左も分からないパキスタンでの最初の宿と言うことで、日本の旅行会社で手配して貰ったホテルだ。
追加料金は、部屋のミニバーで使ったミネラルウォーター。Rs.70(約168円)。

今日は良く晴れている。空が青い。ガイドブックによれば、3月のラホールの平均気温は27℃から夜は14℃位らしい。雨も40mm位で、東京の約100mmに比べて大分少ないようだ。
ホテル前のDavid Rd で捕まえたオートリキシャに、「Charing Cross」に行くよう依頼する。オートリキシャは、インドと同じ小さな三輪タクシーだ。
今晩の宿泊先にと、PTDC(Pakistan Tourism Development Corp.)に近いYWCAを目指していたが、多分リキシャ・ワーラーに判らないだろうと思い、そこに近いLahore中で一番有名な交差点の名前を言った。
Rs.10(約24円)だと。

Charing crossはMall Rd.とMontgomery Rd.の交差点で、ワプダ・ハウス(Wapda house)やパンジャブ州議会議事堂に面している。
ワプダ・ハウスとはパキスタンの水・電力開発庁(The Pakistan Water and Power Development Authority)の建物だ。
Mall Rd.は道の両側に街路樹が繁った、片側2車線の大きな道路で、Lahore新市街のメインストリートだ。

車道より一段高くなった歩道の更に外側には、車道と同じ位の幅の敷地があり、両側の店舗のための駐車場や、屋台などが埋め尽くしている。
隙間が無いほど埋め尽くされた車両の間を人が縫うように行き交し、物売りの少年が手に子供用の風船を持って親子ずれを追いまわしている。

モールロードMall Rd.

モールロードMall Rd.

Hotel Ambassador前から走って来たオートリキシャは、Mall Rd.の歩道脇の僅かな隙間に滑りこんだ。
リキシャ・ワーラーは振り帰って、さあここから何処に行くんだと言うように私の顔を覗き込んだ。YWCAと言っても判りそうもないし、こちらもYWCAのある場所が判らない。Rs.10(約24円)渡して、リキシャを降りた。
そこから地図を頼りに、歩いてYWCAに行くつもりだ。


<ラホールの宿と言えば・・・>
3年前のインド旅行で、カルカッタで泊まったYMCAや、ニューデリーでのYWCAなどが良かったので、パキスタンでも泊まりたいと思っていた。

もともとパキスタンの安宿や、ホテルやゲストハウスの実際の事情はまるで分からなかった上に、ガイドブックでは、ラホール駅前のホテルは泥棒宿が多いことで有名だったと書いてある。
泊っている部屋の天井や窓から侵入されたり、ベッドの下にピストルやマリファナを隠しておいて、ホテルとグルになった警官が、それを見付けて賄賂を要求するという噂もあると書かれていた。
このため、最初はYMCAやYWCAをあたってみようとの思いが強かったのだ。

ガイドブックに記載されたものを、コピーして持参してきた地図を見ながら、Montgomery Rd.を南に下がっていく。多分この通りに面しているはずなんだがなぁと思いつつ歩くが、暑くなってきた街路にはそれらしい看板もない。背中のサブザックをゆすり上げては、手に持ったミネラルウォーターを飲む。

ガイドブック記載の概念図を頼りに歩く

通りの左右を見ながらLawrence Rd.との交差点に出ると、右手の路地にTour BUSの様な中型バスが停まっているのが見える。BUS Standかもしれない。

通りの角に、大きな鍋で揚げたてのパコーラ(Pakora)を売っている屋台があった。
パコーラは、ジャガイモやナスなどの野菜にひよこ豆の粉の衣をつけて、油で揚げた天ぷらの様なスナックだ。インドでも至る所にある。

まだ昼前なので客はいない。やっているのはパキスタンの人の殆どが着ている民族服のシャルワール・カミーズを着た若い男性で、近づいて「Excuse me, Could you tell me the way to the YWCA ?」と尋ねると、にっこり笑って、もっと先だと通りを指差す。

ホントかなと疑心暗鬼で前を振り向くと、背の高い白人の男性が二人、連れだって交差点を渡って来るところだった。私がパコーラ屋の彼を見ると、得意そうにまたにっこり笑った。

YWCAの位置

<YWCA>
交差点を渡り暫く行くと、右手に高い塀に囲まれ、赤錆色の塗料を塗った敷地内が全く見えない位大きな鉄製の扉のある建物が見えてきた。扉の上部には泥棒避けか、尖った棒が何本も付けられている。看板など、建物を表示する様なものは何もない。
ここがYWCAらしかったが、扉は閉まったままで、どの様に訪いを入れて良いか判らない。
仕方なく扉をドンドン叩くと、内側から少し扉が開いた。

隙間から中に入ると、扉の直ぐ脇に椅子があり、2人の男性がこちらを見ている。
「Is here YWCA?」と聞くとそうだという。
「Where is reception?」と聞くと、あちらだと径の先の建物を指さした。

敷地内は広く複数の平屋の建物が建っているが、いずれも旧く暗い。
Receptionと言われた建物の前では、一人の年配の女性が小さなテーブルを挟んで、二人の若い女性から何か聞き取りながら大きな台帳に記入していた。若い女性が貧しそうな身なりをしていたので、それにきちんと対応している姿は好ましく思った。

入り口で、背が高く口髭を生やし、シャツにジーンズ姿の30才代位の男性が、私を認めると中に入れという。

室内は30畳位の部屋で、デスクとソファがあり。デスクの前にはジーンズの男と同じ位の年齢の男性が坐っており、その脇には赤いシャルワール・カミーズにストールの「ドゥパッター」を懸けた小柄な美しい女性が、大きな旧い台帳を広げて坐っていた。

案内してくれた男性が立ったまま、「この外国人が泊まりたいって言ってるゼ」という様な感じで、多分パンジャブ語で若い女性に言うと、彼女が私の方に向き、大きな台帳を広げながら、デスクの前の椅子に掛けろという。
私がザックを横に置き、彼女の方に向き直っても、女性は周りの男性達と話し続けて、なかなかこちらに顔を向けない。女性は小柄な顔が清純そうでとても美しい。

「I would like to stay、2 nights」と言うと、大きな分厚い宿帳をこちらに向け、此処に書けと言う。そして早口で注意事項の様なことを長々と話し始める。
私は旅行に必要な最低限度の英語しか話せないし、日本にいるときは普段殆ど英語に触れていないので、宿泊料は1泊Rs.250で、2泊でRs.500だというところ以外、こんな早口では殆ど聞き取ることが出来ない。

彼女は、こちらのその困惑した様子を見ていたのだろう。話しながら次第に、嘲るような表情になってきた。
イギリスの旧植民地だった地域の人は、英語を話せない人を下等な人間だと思っているとどこかで読んだことがある。そんなことが頭を過ぎる。

私は先に泊まる部屋が見たかったので、「May I see the room?」と聞くと、女性は話を遮られたと思ったのか、不機嫌そうに黙って側にいた男性に何か告げた。すると男性が先に立って歩き出しながら、私に付いて来いというようなことを言う。

女性の不機嫌そうな態度は、単に自分の説明を遮られたからか、あるいはYWCAに泊まりたい癖に、普通のホテルと同じように、部屋を見てから泊まるか否か決めるような行為は不謹慎と思ったのかは分からない。

塀で囲まれたYWCAの敷地は広い。宿泊施設はその片隅にあって、木製のベッドの並んだドミトリーだった。部屋には誰もいなかった。
しかし使用中のベッドの上では、宿泊者のシュラフ(寝袋)が、起きだしたままの様に、まるで大きな虫が飛び出した後の蛹の様にぽっかり穴の開いた状態で置かれていた。
みんなシュラフを使って居るということは、もしかしたら夜は寒いかベッドに虫が居るかで、シュラフなしでは泊まれないのかなと思った。

私は旅行に、Milletの30L程度のサブザックしか持って行かず、シュラフは真っ先に持ち物から省いている。

こりゃ駄目だと、Receptionに戻って、先ほどの美しい女性に「Thank you ,But I will not stay. So I don’t have a sleeping bag.」とたどたどしく言う。
聞いていた女性は「えっ?!何っ?」という感じで、あれほど馬鹿にしていたような態度が豹変した。私はもう一度「Thank you。」と言って部屋を出た。