<2日目ー5>
2000年 3月10日 金曜日 ラホール(LAHOR・PAKISTAN)
インドのニューデリーを出発したパキスタン航空の飛行機は、夜のラホール空港に到着。「SUZUKI」のタクシーで、パキスタンで最初のホテルに着いた。
<パキスタン、これからの旅の行方は?>
Hotel Ambassadorの部屋で、温水のシャワーを浴び、パキスタンに入国するまでの慌ただしさから解放され人心地着くと、今度はベッドの上で考えた。
私は目的地の宿に着くと、最初に次の目的地を決めて、翌日は現地での観光などより先に、次の目的地へ行くための交通機関、鉄道やバスなどの予約やチケットをまず先に確保する様にしてきた。
もし出発の当日にチケットが取れなかったら、他の交通機関を探すか、日程を変更しなければならない。短い期間での旅行では、なかなか停滞する余裕が取れない。本当は停滞出来るような、余裕のある旅がしてみたいけどネ。
パキスタンに入国しラホール迄は来たが、ここから先何処に行こうか。実はまだ決めていなかった。
パキスタンは広い。面積だって日本の2倍はある。選択肢は沢山ある様だが、しかしペキスタン国内は本当に情報が少なく、決めかねていたのだ。
でも内心温めていた候補は、2つあった。
<ひとつはペシャワール(Peshawar)>
パキスタン北部の最西端、北西辺境州(North-West Frontier Province)の州都。そして紛争中で、外務省「渡航禁止」のアフガニスタン(Afghanistan)まで僅か50Kmの国境へ続く、ハイバル峠への入口の町「ペシャワール(Peshawar)」だ。
北部辺境州は、パターン族(Pathan パシュトゥーン人 Pashtuns)のエリアで、中央政府の法の及ばない、部族の掟による自治が行われているというTraibal Territory。
市場で普通に銃が売られているという噂もある、行ってみたいような怖いような町だ。
因みに隣国アフガニスタンはアフガン人(Afghan)の国と言う意味だが、アフガン人はパターン人の別称で同じ民族だ。
3次に亙るイギリスとアフガニスタンの戦争(Anglo-Afghan Wars)によって、同じパターン人の居住圏が、1893年イギリス領インド帝国とアフガニスタン国王の間で調印された「デュアランド・ラインDurand Line」によって分割されてしまったのだ。
これは南下政策をとり、中央アジアからこの地域に領土的野心を持っていたロシア帝国と、イギリス領インド帝国を支配するイギリスの間の緩衝地帯を設けるため決められたものだった。
これによって、イギリス領インド帝国は北部辺境州やTraibal Territory、ムルタンなどを自国領土に加えることになった。1947年独立後のパキスタンでも、「デュアランド・ライン」がアフガニスタンとの国境線となっている。
この町は、バングラディシュのベンガル湾に臨むチッタゴン(Chattogram)から、インド西ベンガル州のカルカッタ(Calcutta)やハウラー(Howrah)を経由、北インドを横断して、デリ―(Delhi)やパキスタンのラホール(Lahor)を経て、アフガニスタンのカブール(Kabul)に到る、2000年以上前から南アジアと中央アジアを結ぶ2,500Kmに及ぶ交易路である「グランド・トランク・ロード Grand Trunk Road(GTロード)」の、パキスタンに於ける終点の町でもある。
<もうひとつの候補はムルタン(Multan)>
ムルタン(Multan)はラホールと同じパンジャブ州(Province of Punjab)だが、ラホールより南西に、300Km位離れた旧い街だ。ムルタン県の県都で、人口は380万人位らしい。
いま居るラホールは、スィンド州(Province of Sindh)の州都でアラビア海に面した町カラチ(Karachi)に次ぐパキスタン第二の都市で、人口が400万人。
パンジャブ州の町はどこも人口が多いが、もともとこのパンジャブ州は肥沃な穀倉地帯で、この州だけでパキスタンの全人口の半分を占めると言われている。
さらにムルタンは、ラホール(Lahor)からムルタン(Multan)、バローチスタン州(Province of Balochistan)の州都クエッタ(Quetta)を通ってイラン(Iran)に抜ける、もう一つの交易路「LMQ.ロード」の中間点で、パンジャブ平原の中心で、遺跡で有名な「モヘンジョ・ダロ」(Moenjo Daro)などと同時期に興ったと言われる旧い町らしい。
パキスタンはムスリムの国だが、711年にイスラム国家のウマイヤ朝のイラク総督から派遣されたムハンマド・ビン・カースィム将軍率いる遠征軍が、陸と海両路から現在のパキスタンのスィンド州に侵入した。
スィンド州はインダス川(Indus)の下流域にあたる地域だ。
遠征軍はインダス川を遡って、712年パンジャブ州のムルタンを攻略した。これが南アジアにおける最初のイスラムの侵入だったらしい。
因みに、インダス川はチベット高原に源を発し、インダス川とその支流を指す「五つの川」を意味する肥沃な大地「パンジャブ」の平原を流れ、アラビア海に注いでいるパキスタン一の大河だが、インドやパキスタンでの名称は「スィンドゥ(Sindhu)」で、スィンド州の名称もここからきている。
私は時間と機会に恵まれれば、何時の日かイランを通ってトルコまで行ってみたいと思っている。しかし今はアフガニスタン経由の道は、実質上閉ざされている。イラン経由しかない。
実は昨年行った南インド旅行の際、ケララ州のトリバンドラム(Trivandrum)で、ヨーロッパからトルコ、イランを経由して、パキスタン、インドへと旅をしてきたと言う若い女性二人組に出会った。
短い時間だったが、一緒に食事をしながらどの国境を通って来たのかなど具体的な話を聞いた。
イランからは、城塞遺跡で有名なバム(Bam)、ザーへダン(Zahedan)を経て、ミールジャーベ(Mir Jawe)で国境を越え、パキスタン側の町タフタン(Taftan)に抜け、ダルバンディーン(Dal bandin)、そしてクエッタ(Quetta)へと辿って来たらしかった。
ほとんどがミニバスとtaxiで抜けられたと。
それを聞いて、私も行ってみたいと思いを募らせていたのだ。
彼女たちの様に1年間も掛けて旅は出来ないが、勤めの間の短い休暇を利用して、リレーの様に旅をつないで、いつか達成させたい。
そうだ、次回の旅行ではアラビア海沿いのスィンド州の州都でもあるカラチ辺りから入国して、旅の続きをムルタンから始めれば、クエッタを通ってイランまで越境出来るかもしれない。
そうだ、今回はムルタンまで行ってみよう!!
それにムルタンには「シャー・ルクネ・アーラム(Shah Rukn-e-Alam)」(世界の柱)がある。