<2日目ー1>
2000年 3月10日 金曜日 ニューデリーNew Delhi 晴れ
<デリー(DELHI)の名所を巡る>
昨日、空港から現地のエージェントに連れてきてもらった、Hotel Ranjitで目覚める。
Diningで小さくて薄いパン、目玉焼き、チャイの朝食。Rs.158(約553円)。
日本で依頼したこのホテルの宿泊料には、朝食は含まれていなかった様だ。しかし随分高い朝食だ。
荷物をパッキングして、ホテルをcheck outする。
これから迎えに来てくれた現地エージェントの人と一緒に、車でDelhi市内を観光して回る。
1997年の最初のインド旅行では、デリーに来はしたが、名所旧跡の観光らしきものはクトゥブミナールQutab Minarに行っただけだった。もともと遺跡や名所には余り興味が無いが、今回はパキスタンへ飛ぶフライトまでの時間調整だ。
<ラージ・ガートRaj Ghat>
デリーは、インド北部のヒンドスタン平原(Indo-Gangetic Plain)を流れるガンジス河(The Ganges)の最大の支流であるヤムナー河(Yamuna River)流域に拓けた町だ。
最初に行ったラージ・ガートRaj Ghatは、そのヤムナー河の畔に建っている。
「バープー(父親)」や「「マハトマMahatma(偉大な魂)」と呼ばれたモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)が、イギリスから独立後の1948年1月30日にヒンドゥー原理主義者の男に暗殺された後、荼毘に付された場所だ。
しかし此処は墓所ではなく、ヒンドゥー教徒のガンディーの遺灰は、ガンジス河やイギリス留学後最初に弁護士活動を始めた南アフリカの海に撒かれている。
ガンディーの誕生日である10月2日は、インド共和国の法定休日になっているらしい。
綺麗に整備された広大な敷地の中に、ひっそりと小さな記念碑が立って居た。綺麗な花が飾られているが、碑自体は本当に簡素なものだ。
<ラ―ル・キラーLal Qila>
次いで訪れたのがラ―ル・キラーLal Qila。
赤い砂岩で作られているので「赤い城」(Red Fort)と呼ばれている。ムガール帝国(Mughal Empire)第5代皇帝のシャー・ジャハーンが、1648年首都をアグラ(Agra)からデリーに遷都した時に、居城として建設したらしい。
中には入らなかったが、赤い砂岩の城壁が連なって、西に向いた正門のラホール門(Lahore Gate)のイスラム建築らしいドームの乗った姿は、インドが明日以降訪れるパキスタンとは同じ国、同じ文化圏だったのを改めて教えている様だ。
「On Independence Day, Prime Minister give a speech here?」独立記念日には、此処で首相が演説するのかと、エージェントにたどたどしいい英語で聞くと、「It’s always.」と。
インドの法定休日の8月15日「独立記念日(Independence Day)」には、城門前の広場に集まったデリー市民たちの前で、礼砲の音を背景にインド国旗が掲揚され、初代首相のジャワハルラル・ネルー(Jawaharlal Nehru)以来、歴代の首相がこの城壁に登って演説を行って来たらしい。
因みに、インドの「独立記念日」は8月15日、隣国パキスタンのそれは8月14日だ。日付が日本の終戦の日と関係がある様な気がするが、全く関係ないらしい。
さらに、インドとパキスタンは1947年のこの日に、英領インド帝国から同時に分離独立したはずだが、どうして「独立記念日」の日付が違うのだろう。
しかしそんな疑問をよそにいま目に留まるのは、この「独立記念日」の式典で多くのデリー市民が集まった場所で、しかし今は何もない埃っぽくただっぴろい広場に、夥しい数の人が寝込んだり、ただうずくまる様に座り込んでいる姿だ。見ると、後ろの城壁に沿って、僅かな生活用具や衣類が柵に掛けられているのが見える。ここで生活しているのだろうか。
<フマユーン廟Humayun’s Tomb>
自分の意思でなく、ただエージェントの車に同乗してあちこちの名所旧跡を巡っていると、自分がいまどこにいるのかさえ分からなくなる。
フマユーン廟Humayun’s Tomb。此処は1565年に、ムガール帝国第2代皇帝フマユーン(Nasiruddin Humayun)の墓廟として作られたらしい。
入口に停めた車から、ひとりで中にはいって行く。
中央の大きなドームと、左右対称の姿は、四方のミナレットこそないが、絵葉書やパンフレットでしか見たことが無いが、アグラ(Agra)にあるタージ・マハールTaj Mahalに似ている。
それもそのはず、フマユーン廟は後のタージ・マハールの建築の先駆となったイスラム様式の建造物らしい。
中央の玄室に入ると、大小3つの白大理石の石棺が置かれている。此処だけは観光客が居て、欧米人のグループが写真を撮っている。
ユネスコが決めたこんな称号が何の意味を持つのか分からないが、此処も「世界遺産」らしい。しかし玄室以外に観光客は殆どいない。サリー姿のローカルの人が何人か訪れているだけで、広い敷地の中は静まり返っていた。
<ラジパス通りRajipathとインド門India Gate>
インド門India Gateは、ニューデリーの官庁街の中にあった。
正確に言えば、ニューデリーのコンノートプレースから南に、東西約3㎞にわたるラジパス通り(Rajipath 旧キングスウェイKingsway)があり、その西端が旧インド副王兼インド総督府(Governor - Gental of India)、現在のインド大統領官邸(ラシュトラパティ・パワンRashtrapati Bhavan)で、やや傾斜のついた広い道路を下がった東端にインド門が建っている。その道路の両側に、インドの中央官庁の建物が並んでいる。日本で言えば、霞が関の様な場所だ。
この道路は、インドの法定休日のひとつ1月26日の「共和国の日(Republic Day)」に使用されるらしい。この日はインド共和国の大統領の前で、大々的な軍事パレードが行われるそうだ。
ニューデリーのインド門は、実はムンバイ(Mumbai 旧ボンベイBombay)にあるインド門(Gateway of India)とは性格が違う。
ムンバイのそれは、文字通り1911年にイギリス国王であり、かつイギリス領インド帝国(British Raj)の皇帝でもあったジョージ5世と妃がインドに上陸するのを記念して作られたものだが、ニューデリーの門は、1931年に「全インド戦争記念碑(All India War Memorial)」として建てられたものらしい。
門には、アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle)の推理小説で有名なシャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)作品で、相棒で語り部でもあるジョン・H・ワトソン博士(Jhon H Watson)がジェゼイル弾(Jezail)で負傷したことになっているアングロ・アフガン戦争や、第一次大戦など欧州や中東、中近東で戦死したイギリス領インド陸軍(英印軍 British Indian Army)の兵士や将校の名前が刻まれている。
プリンスィズ・パーク(Princes Park)の放射状に広がった街路の真ん中に建てられた高さ約42mのアーチは、戦争で亡くなった兵士への追悼の碑文が刻まれている以外、殆ど宗教的な装飾の無い、見ようによってはやや無機質な感じがするモニュメントだ。
<クトゥブミナールQutab Minar>
最後はクトゥブミナールQutab Minarだった。
Qutab Minarは、1997年最初にインドを訪れた時には旅の最後に来て感動したが、その時のことを思い出すと感慨深い。
飛行機で一緒だった日本からのツアーの人たちも、同じような観光名所を回っているのだろう。
昼食のためにエージェントの案内するインド料理店に入ると、店内には日本人観光客のgroupもいた。多分此処は日本人観光客を案内する常連の店なのかも知れない。
食事代は、Rs.234(約820円)。
ここで彼に、Guide料「$40」を米ドルの現金で支払った。ルピーだったらRs.1600(約5,600円)位。他にエージェントにRs.200(約700円)、車のドライバーにRs.100(約350円)のチップを渡した。