歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インド・パキスタンひとり旅(2000年) <12> まだ3日目 インド・パキスタンの独立と「Partition」

<3日目ー7
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホール二日目。TDCPの、ラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」に参加して、市内を巡っている。

<イギリス領インド帝国からの独立>
1947年7月18日、イギリス議会で成立したインド独立法(Indian Independence Act.)では、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの国に分割し、それぞれの国の憲法が施行されるまでは、イギリス連邦の自治領(ドミニオンDominion)、すなわちカナダやオーストラリアと同じ、国際法上は独立国とすることを決めた。

1947年8月14日、イギリス領インド帝国から、英連邦の一員でイギリス国王を君主とする自治領(ドミニオン)「パキスタンDominion of Pakistan」が独立。
8月14日の深夜には、ニューデリーの制憲議会議事堂(現国会議事堂)で、ネルー(ジャワハルラ―ル・ネルー Jawaharlal Nehru初代首相)が独立宣言を行い、インド全土にラジオ放送された。こうしてインド連邦もドミニオンとして独立した。

因みに、インド、パキスタンの分離独立は、8月14日と15日の日付の変わる深夜の同一時だったが、パキスタンの独立記念日は「8月14日」でインドのそれは「8月15日」と異なっている。
その理由は、まず14日に最後のインド副王兼総督のマウントバッテン卿が、パキスタンのカラチで行われたパキスタンの独立式典に参加した。パキスタン自治領(ドミニオン)の初代総督にはジンナーが就任した。

式典が終わると、マウントバッテン卿はインドでのもう一つの独立式典に参加するためニューデリーに戻って行った。
そして前夜のネルーの独立宣言に続き、翌15日の早朝に、インド副王宮殿(現在の大統領府)の「ダーバーホール」で、マウントバッテン卿は「最後のインド総督」から「初代インド自治領(ドミニオン)総督」となり、ネルーが初代首相になったのだ。
つまり、インドとパキスタンの独立記念日が1日異なるのは、独立式典に参加するマウントバッテン卿の移動の時間のためと言う訳らしい。

<ラドクリフ・ライン
インド、パキスタンの分離独立は決まったが、それぞれの国の地理的な分割(Partition)は簡単には行かなかった。
この役目は、それまでインドとは関わりのなかったロンドンの法廷弁護士シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)に委ねられた。そのため両国の国境線は「ラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)」と呼ばれている。

この領土の線引きは、ヒンドゥー(Hindu)が多い地域と、ムサルマーン(ムスリムMuslim)の多い地域を分割しようとしたものだが、それまでヒンドゥー、スイック、ムサルマーンが混在して住んでいた地域をどの国に編入するかが問題だった。更にはムサルマーンの多い地域がインド亜大陸の東西に分かれて位置していたことも問題を更に複雑にしていた。

新聞に公開されたインド・パキスタンの分割案

「How India may be split up? インドはどの様に分割されるのか?」と題されて新聞に公開されたインド・パキスタンの分割案の中で、「TO DECIDE OR PARTITION(決定するか、分割か)」と書かれていたパンジャブは、1947年初頭、パンジャブ州境界委員会によって、「インド連邦」に属するか「パキスタン」に属するかを、地域を流れるインダス川を始めとする5つの川に沿って、5つの地域に区分して検討されていた。

  • Sind Sagar Doabは、インダス川(Sindhu又はIndus River)とジュラム川(Jhelum River)の間の地域。
    因みに「ドアブDoab」とは、南アジアで合流する2つの川の間にある土地のことらしい。
  • Jech Doabは、ジュラム川とチュナブ川(Chenab River)の間の地域
  • Rechna Doabは、チュナブ川とラヴィ川(Ravi River)の間の地域。これから行こうとしているムルタンの在る地域だ。
  • Bari Doabは、ラヴィ川とビーズ川(Beas River)の間の地域。ラホールやグルダスプール(Gurdaspur)、アムリトサルのある地域だ。
  • Bist Doabは、ビーズ川とサトレジ川(Sutlej River)の間の地域

もともと圧倒的にムサルマーンの多いパンジャブ地域でも、係争地域は、Bari DoabとBist Doabだったらしい。
このうち「Bari Doab」のグルダスプールのムサルマーンの割合は、51.5%。アムリトサルのそれは46.5%だった。

パンジャブ地方の分割案


<パーテーションPartition of India
前出のビーシュム・サーヘニー(Bhisham Sahni)の小説「タマス(暗黒)」では、暴動後、スィック(スィック教徒)がいらなくなった家をヒンドゥー(ヒンドゥー教徒)に売ろうとすると、「で、パーキスターンが誕生してしまったら?」「放っておきなさいよ。政治家のごまかしですよ。誕生したらどうなると言うんです。人々はここに住むでしょう。何処に逃げて行くわけにはいかない」と語っている。

しかし実際には、人々の周囲では逃げて行かざるを得ない状況が起きてしまっていた。
イスラム教には「ムハージル(Muhajir)」と言う考えがあった。
イスラムの信仰を貫くために、ムスリム(南インドでは「ムサルマーン」)は預言者ムハンマドと共にメディナへ移住(ヒジュラHijrah))した故事から、イスラム法では、異教徒の支配下にあり、宣教とジハードによる状況の打開が不可能な場合、信仰を守るためイスラム教徒が支配する地域に移住すべきとの思想があったのだ。

ヒンドゥー教徒多数派の国「インド連邦」となる地域から、ムサルマーン715万人が東と西のパキスタンに逃れた。
「パキスタン」となる地域からは、ヒンドゥー(Hindu)やスイック(Sikh)、840万人が難民となって「インド連邦」へ移動した。
何世紀にもわたってヒンドゥー教徒、スイック教徒、ムサルマーンが共に暮らし、同じ言葉を話したパンジャブでは、ムサルマーンは西のパキスタンを目指し、ヒンドゥー教徒、スイック教徒は東のインドに逃げて、「分離(Partition)」が行われた。
この大移動が、独立と共にイギリス軍の撤退によって生じた秩序の空白の中で、様々な惨劇を引き起こした。

東のベンガルでは、まだ1905年の「ベンガル分割令」の経験があったが、分割された経験のない西のパンジャブ州では、両教徒間に数え切れないほどの衝突、暴動、虐殺、強姦、女性の誘拐、そして両者の報復が際限なく繰り返された。
インド全体で、故郷を追われた人は約1000~2000万人で、人類史上最大の人口移動と言われ、混乱の中で100万人以上が死亡したと言われている。

インドに逃げたヒンドゥー教徒(Hindu)やスィック教徒(Sikh)は、デリー、ムンバイ(ボンベイ)、カルカッタに、東西パキスタンに逃げたムサルマーンは、カラチ、ラホール、ダッカに巨大なスラムを作った。
両国に膨大な都市貧民層を作り、その後の大きな社会的な不安定要因となった。

インド全土で起きた「分離(Partition)」

インドに向かうスイック教徒(Wikipediaより)

デリーのフマユーン廟に集まるムサルマーンの難民(Wikipediaより)

パキスタンに向かうムサルマーン(Wikipediaより)


<カシミールと東ベンガル>
この時ヒマラヤ山脈の麓のカシミール(Kashmir)では、イギリス領インドの時代から藩王国(Princely State)と言う自治領で、人口の大部分はムサルマーンだったが藩主はヒンドゥー教徒のため、インドへの帰属を決めていた。

しかし「インド連邦」「パキスタン」が分離独立して直ぐの1947年10月21日~12月31日には、早くも帰属問題で揺れていたカシミールを巡り国境紛争(第一次印パ戦争)が勃発し、現在まで続く印パの対立が始まって行く。

この後1950年1月26日、インド共和国憲法が施行されて、インドはイギリスの自治領(ドミニオン)から完全に独立し共和国となり、インド自治領総督は廃止され、大統領が設けられた。
一方パキスタンも、1956年に共和制の憲法を採択して、イスラム・共和国(Islamic Republic of Pakistan)が成立した。

しかしその後もインドとパキスタンの対立は続き、1965年には同じカシミールを巡って第二次印パ戦争が起きている。

1971年3月には、初めから「Pakistan」の文字の中には含まれていなかった東ベンガル(独立後は「東パキスタン」)で、東ベンガルのパキスタンからの独立戦争が始まる。
1947年独立したパキスタンの中でも「少数派」の東パキスタン(East Pakistan)は、今度は常に政治を寡占する「多数派」の西パキスタンに社会的な圧迫を受けていたのだ。
これにより、インドへ大量の難民が押し寄せる事態となった。
このため11月21日、インドは東パキスタンに25万人の軍隊を送ったため、同地に駐留していたパキスタン軍は降伏。
東パキスタンは、バングラディシュ(People’s Republic of Bangladesh)として独立することとなった。