<3日目ー6>
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホール二日目。TDCPの、ラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」に参加して、市内を巡っている。
<小説「タマスTAMAS」の描く時代>
1947年、イギリスの植民地だった英領インド帝国から分離独立する前のインドの状況はどうだったのだろう。
そこは、その後インドとパキスタンが分離して独立する要因が、カオスの様に薄巻いている世界だった。
インドの作家ビーシュム・サーヘニー(Bhisham Sahni)が1973年に発表した小説「タマス(暗黒)」は、インドとパキスタンがイギリスから分離独立することが示された「マウントバッテン・プラン」(Mounbatten Plan)が提示される直前の、1947年の5月4日から続く5日間を描いた作品だと言われている。
小説の舞台になっているのは、いまはパキスタンとなっているラワルピンディ(Rawalpindi)とその近郊だ。
パンジャブ州の北端にあり、1960年代に人工的に建設された、現在のパキスタンの首都である計画都市イスラマバード(Islamabad)の南15Kmに位置する旧い町だ。
当時のラワルピンディは、「路地を入ったところからムサルマーン(イスラム教徒)の家が続く。(中略)その先数軒はヒンドゥー(ヒンドゥー教徒)とスィック(スィック教徒)の家が並び、それから路地の外れまで、ムサルマーン、シェーク(預言者ムハンマドの教友の末裔)の家が続く」(ビーシュム・サーヘニー 田中敏雄訳「タマス(暗黒)」財団法人大同生命国際文化基金 アジアの現代文明 1991年)様な状態だった。
<始まり>
この町に、今日も早朝から一部のムサルマーンも含めた国民会議派の宣伝隊が、歌を歌い、スローガンを叫びながら街を廻っている。しかし国民会議派は、建前の様にインドの各層を代表するものなどではなく、実質はヒンドゥーだとするムサルマーンの住人の目は冷たい。
そんな中、ある日町のマスジット(Masjid モスクMosque)の階段に、ムサルマーンの忌避する豚の死骸が投げ込まれていた。
一挙に町中が険悪になる空気に、ヒンドゥー、スィック、ムサルマーンの長老たちが揃って植民地政庁の県長官に会いに行き、軍や警察の手で暴動の発生を未然に防いでくれるよう要請するが、まだ何も起きていないとイギリス人県長官に一笑に付されてしまう。
ロシアの南下政策による中央アジアやアフガニスタンへの進出に対する備えから、ラワルピンディの近くのカフーターには英領インド最大の軍の駐屯地(カントンメントCantonment)があったにも関わらず。
<争い>
そんな中、至る所で小競り合いが始まり、町のあちこちから「アッラーホ・アクバル(アラーの神は偉大なり)」や「ハル・ハル・マハ―ディオ(シヴァ神を湛える喊声)」が聞こえる中、国民会議派の宣伝隊にいた老人が殺害され、ムサルマーンの死体も発見される。
ムサルマーンの村では、村外れに1軒だけあるスィックの人の営む食堂で、老夫婦が村を離れて避難すべきか話し合っている。
妻は避難しようというが、夫は何処に避難するんだ、それにムサルマーンの知人が、何かあった時は自分たちが守ってやるから大丈夫だと言ったじゃないかと。
しかしその知人が不意に訪ねて来て、早く逃げろと言い残して帰って行った。
老夫婦は慌てて、僅かな宝石類をトランクに仕舞って鍵を掛ける。
老夫婦は取るものも取敢えず、トランクの鍵だけ持って逃げ出す。すると、川向うからこの村のものではないムサルマーンの集団が「アッラーホ・アクバル」と口々に叫びながら押し寄せて来て、家財を略奪した上、食堂を焼いてしまう。
老夫婦は逃げながら、町で生地屋をやっている息子や、比較的多数のスィックが住んでいる町に嫁いでいる娘の身を案じている。
町ではムサルマーンの不良少年たちが、いつも家々を訪ね売り歩いていたスィックの香水売りの行商人を、面白半分にナイフで殺してしまう。
老夫婦は親切な夫人によって1軒のムサルマーンの家に匿われるが、その家の主人が帰って来て略奪してきたトランクを家族に見せている。しかし鍵が掛かっていて開かない。
その聞き覚えのある声を聞いた老夫婦は、匿われていた納屋から出ると、そのムサルマーンが老夫婦の店にも出入りしていた顔見知りであることを知り、目の前に置かれたトランクも老夫婦のものだった。
老夫婦は、そのトランクはもう君たちのものだと言って、身に着けていた鍵を出してトランクを開けてやる。
その頃、ひとりの若いスィックがムサルマーンの集団に追われて、山の中を逃げていた。男は洞窟に隠れるが、追いついたムサルマーン達に囲まれる。
ムサルマーンは嘲笑しながら、イスラムに改宗すれば命は助けてやると言い、恐怖に駆られた若いスィックは、泣きながら「カルマ―」を唱え、イスラム教に改宗させられる。この若いスィックは、食堂の老夫婦の息子だった。
一方、町に暮らしていた老夫婦の娘は、他のスィックと共に町のスィック教の礼拝堂であるグルドゥワーラー(Gurdwara)に立て籠もっていた。堂内には2m位の長さのラーティー棒や刀、ナイフ、銃などの武器が用意されていた。
しかし町には、既に他の町から来たムサルマーンの応援が続々と入り、立て籠もって3日目には銃の弾丸も底を尽いていた。
突然、立て籠もっていた十数人の女性たちは立ち上がると、老夫婦の娘を先頭に子供たちを引き連れ、グルドゥワーラーを出て走り出した。町の中にある共同井戸まで行くと、次々に身を投げ、母親は幼い子供を投げ入れると自らも井戸に身を投じた。
<一時的な終息>
5日目の朝、町の上空にイギリス軍の飛行機が現れ、気付くと町中からは銃声が止んでいた。立て籠もっていたグルドゥワーラーの屋上にいたスィックのカールサー(Khalsa)の戦士は、飛行機に向かって「ヤス・サル(Yes,Sir)」と言って敬礼する。
町のチョウク(四辻、交差点)には警察や軍の兵士が立ち、ようやく暴動が治まっていた。設けられた救護所には、あの食堂の老夫婦の姿があった。
暴動後、人々は「これからはヒンドゥーの居住区にムサルマーンは誰も住まないし、ムサルマーンの居住区にヒンドゥーは誰一人住むことはない。絶対ですよ。パーキスターンが出来ようと出来まいと。」と語る。